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みなさ~ん、お久しぶりです!

 

○○くんに○○ちゃん、○○ちゃんのお母さん、○○くんのおじいさま。みなさんお元気でしたか?

 

元気なお友達は、しばらく会わないうちに背が伸びたのではないですか?

 

長~いお休みを頂き、博物館もスタッフもリフレッシュ充電完了です(*^_^*

 

メンテナンス休館も2月7日(金)で終わり。
/8(土)から開館します♪

 

image001.gif早くみなさんに会いたいな~~~

みなさんのお越しを心よりお待ちしております。

           フロアスタッフ一同

ユニバーサル・ミュージアムをめざして45

 

多文化であることの苦しみと寂しさ

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 


 わたしは大阪で育ちました。大阪市でも南の方です。大阪の南には、昔は南蛮貿易や港町として名高い自由都市(つまりアジール)だった堺があります。そんな環境で育ったので、近所には いろんな人がいるのが当たり前でした。その人たちがいろいろな価値観を持って地域で暮らし、地域に根付いている。そのことを当たり前だと思って暮らしてきました。

ですから、例えばクラスの□□君や○○さんは韓国系の民族学校に進学すると聞いたり、奄美大島に親族がいるのだと知りましたが、何ということはなく、それよりもその生き方が羨(うらや)ましくなって、仲良かったり、けんかをしたりして過ごしていました――今でも友人として付き合いのある人もいれば、その後、縁遠くなった人もいます。

☆   ☆

 そのわたしが「日本人は繊細な感覚を大切にする」とか、「日本人は清潔好きだ」と聞かされても、何だか腑(ふ)に落ちません。なぜ、そんなことを言うのだろうと不思議な感覚を覚えてしまいます。「日本人は繊細な感覚を大切にする」というのも、「日本人は清潔好きだ」というのも、それはそれで大事なことなのですが、皆が皆、一律に「日本人は繊細な感覚を大切にする」とか「日本人は清潔好きだ」というのは間違っているのではないか。あの人やこの人や、そうでもない人を、わたしは知っていると思ってしまうのです(大阪人は「繊細な感覚がない」とか、「不潔だ」と言っているのではないですよ。大阪の商店街や路地はゴチャゴチャしているが、そのゴチャゴチャが、わたしは好きだと言いたいのです)。

 このわたしの感覚は、もともとの多文化の環境から生まれたものかもしれません。しかし、わたしのように大阪で育ったのではない人、つまり日本の多数者にとって、この感覚とは、どうも違っているらしいと、その事にようやく気が付きました。(見かけ上の)多数者は、多数者にとってだけ都合よく街作りを行い、社会作りを行っています。そのために「街」とか「社会」に居場所のなくなった人は、さまざまな事件を起こしている。しかし、(見かけ上の)多数者はそのことを見ないようにしている。そんなことに気が付いたのです。

 平田オリザさんの『新しい広場をつくる』 (1) という本を読んでみました。平田さんは図書館――生涯学習施設のひとつです――を例にあげて、社会的弱者にも居場所を提供するはずのコミュニティ・スペース、つまり「必要とする人は誰でもいられる場所」として、日本の図書館は十分に機能していないと述べています。

 ある時、中学生とホームレスが図書館に居合わせました。寒い時期だったために、中学生もホームレスも暖(だん)を求めて図書館に集まってきたのです。中学生は本を読む人の側(そば)ではしゃぎ回り、そのことをホームレスがたしなめます。ところが中学生はそのことを逆恨みし、「復讐」と称してホームレスを襲ったのです。二度、三度と襲撃は重なり、最後には仲間の高校生も加わって、ついにホームレスを殺してしまいます。この事件は新聞やテレビでも大きく取り上げられたので、憶えている方が多いでしょう。

 これは教育の問題なのでしょうか? 平田さんは、加害者となった中学生(と高校生)や被害者のホームレスが、安心できるコミュニティ・スペースを作ってこなかった街作りの問題だと言います。この場合、中学生(と高校生)やホームレスは、共に社会的弱者です。

 この本で平田さんが言っていることを引用しましょう。「これまでの日本社会は、『誰もが誰もを知っている共同体』を作ってきた。これは、農耕社会の宿痾(しゅくあ)と言っていいだろう。(中略)麦は家族経営でも収穫できるが、稲は村落共同体全体で取り組まないと収量が上がらないという宿命を背負っている。(そのため、地域は『小さくて強固な共同体』である必要がある。:三谷)/しかし、都市化が進み、この小さくて強固な共同体に限界が来ているとすれば、私たちは、この『誰もが誰もを知っている強固な共同体』を、少し広域に緩(ゆる)めつつ、『誰かが誰かを知っている穏やかな共同体』に編み変えていかなければならない。」(『新しい広場をつくる』の53ページ)

 平田さんは日本社会の特徴を「村落共同体のしきたり」に求めます。そこでは多文化が共生していく論理ではなく、異質なものを排除する論理が力を持っています。形だけは肥大して都市のようになったが、その実体は、地域が「小さくて強固な共同体」のままなのです。そこでは「暴力をふるう中学生は排除する」とか、「ホームレスは排除する」といった「排除の論理」だけの空間が出現しました。「暴力をふるう中学生は排除する」とか「ホームレスは排除する」というのは当たり前のことだと思うかもしれませんが、わたしは、そのこと自体を暴力的に感じます。「排除の論理」は社会の格差を無視した、きわめて乱暴な解決法だと思います。

 「排除の論理」は、何も彼ら/彼女らだけを排除するのではありません。社会的弱者になったが最後、わたしやあなたも、簡単に「排除」の対象になるのです。「排除の論理」は表向き、正義です。しかし、当然のことながら「排除」の対象になる人にとっては、正義でなどあるわけはありません。「誰もが誰もを知っている強固な共同体」であった水稲農耕社会に生きる人びとは、都市化によって息ができなくなる。「繊細な感覚の」「清潔な」だけの、殺伐とした世界が広がっていたのです。

 その解決策を、平田さんは「社会包摂(-ほうせつ)=social inclusion」に求めています。「ユニバーサル・ミュージアムをめざして21」に書いた「サラマンカ宣言があった!」 (2) の回の「インクルージブ教育」と同じ考え方です。

 「地域社会の崩壊や核家族化、そして長引く経済の停滞の結果、人間はあっけなく孤立化してしまう環境に生きざるを得なくなった。現代社会において孤立しがちな人間を、どうにかして社会につなぎ止めておこうというのが、「社会包摂(-ほうせつ)」的な政策だ。これは、排除(exclusion)の論理ではなく、人々を社会に包摂(inclusion)することによって、結果的に共同体全体のリスクとコストを低減していこうという考え方だ」(61ページ)というのです。この方策が、うまい解決策になるのではないかと言うことです。

☆   ☆

 平田オリザさんは、演劇という芸術の社会的な意味を探る中で、このような考え方に至りました。演劇は「地縁や血縁のように(身動きが取れないほど)熱いもの」でもないし、社会が営利(≒お金儲け)だけで動くというのでは、あまりにも冷たい。かといって、市場経済ともどうにか折り合いをつけないと、何事であれ現代社会で実現することは難しい。市場経済と折り合いをつけられる「新しい広場」として演劇があり、劇場がある。そして「街のそこかしこに」は「出会いの場=コミュニティスペース」(52ページ)が必要だと論じます。

 「演劇」と同じことは「科学」にも言えます。「科学」は直接的に社会の役に立つ(≒市場経済の商品になる)場合もありますが、ひとはくで話題になる「科学」では、直接、商品化はできない場合が多いのです――恐竜や照葉樹林からでも、何とか工夫すれば商品は作れますが、恐竜化石そのもの、照葉樹林という植生そのものが、コンビニで売っているような商品になるわけではありません。それでも博物館は必要です。なぜかと言えば、「博物館」という生涯学習施設では、何でも自分で興味を持った事を探れる場所だし、そこに集まる人びとに重要な「出会いの場」(=コミュニティ・スペース)を提供するからです。つまりユニバーサルな空間になるわけです。

 平田さんの議論にせよ、ユニバーサル・ミュージアムの議論にせよ、自由に集える場所は、基本的にお金になりません。そもそもコミュニティ・スペースは、地縁・血縁とは別物であり、市場経済にも馴染みにくいものです。しかし、「人間の孤立化」や「地域社会の崩壊」といった現代社会の弱点を防ぐためには、図書館や美術館、博物館といった生涯学習施設にユニバーサルな考え方、インクルージョンの考え方は、ぜひとも必要です。

 長く地縁と血縁のしがらみに縛り付けられていた日本列島に生きる人びとが、簡単に見知らぬよそ者を受け入れる余裕などはないと怒る人もいるでしょう。それでも社会的弱者がいる限りは、どうあってもユニバーサルな考え方、インクルージョンの考え方を受け入れなければなりません。そこには新しく受け入れる多文化であることの苦しみと寂しさがありそうです。その苦しみや寂しさは、新しいものを受け入れらきれないという感情から起こるのかもしれません。

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(1) 平田オリザさんの『新しい広場をつくる』(岩波書店、1,900円)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/9/0220790.html

(2) 「ユニバーサル・ミュージアムをめざして21」に書いた「サラマンカ宣言があった!」
http://www.hitohaku.jp/blog/2013/01/post_1680/

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

岡山県吉備中央町の宇甘渓にアオキの調査に行ってきました。アオキには「アオキ」と「ナンゴクアオキ」と呼ばれるものがあります。アオキは染色体数が2n=32の4倍体で、北海道から中国・四国地方まで広く分布しています。一方、ナンゴクアオキは2n=16の2倍体で中国・四国地方以西に分布しています。岡山県ではアオキとナンゴクアオキの両方が生育していてとても調査しやすい場所なのです。

さて、これまでアオキとナンゴクアオキは染色体数が違うものの外見で区別するのは難しいとされてきました。
しかし、この2種類のアオキは葉の鋸歯の形で区別できるのです。

aoki1.jpg

これがアオキ(右)とナンゴクアオキ(左)の葉です。

 

  aoki2.jpg

 この2枚の葉を比べて見ると、アオキの葉は鋸歯の先は外を向いています(赤線)。しかしナンゴクアオキの葉は鋸歯の先が内側を向いているのです(黄線)。

個別に見てみると、
こちらがアオキ。鋸歯の先は外側を向いて鋭い感じです。

aoki3.jpg

 

こちらはナンゴクアオキ。鋸歯の先は内側を向いていて丸みがあります。

aoki4.jpg


この違いは伊豆諸島や屋久島など島嶼部に生育するものには当てはまりませんが、本土のアオキとナンゴクアオキであればほぼ区別できます。

山本伸子(自然・環境評価研究部)

itamisirikahappyou.jpg 

 人と自然の博物館では、伊丹市教育委員会と平成25年2月22日に協力協定を締結し、理数教育推進と連携のモデルづくりに取り組んでおります。その一環として、中学校の理科自由研究に協力しております。
 去る平成25年6月9日には、当館研究員の橋本佳明主任研究員、赤澤宏樹主任研究員が伊丹市の中学校に招かれ、「アリの飼育」「グリーンカーテン」について講義・実習を行いましたが、これらの内容を含む9点の研究発表会が平成26年1月18日伊丹市総合教育センターでありました。


●発表された研究テーマ等は以下のとおりです
 「ピン球のはね方調べ」 荒巻中学校1年
 「フックの法則についての研究」 笹原中学校2年
 「グリーンカーテンの効果について」 東中学校1年
 「鳥の羽の構造・種類と飛ぶ仕組み・揚力」 南中学校1年
 「アリにまつわる3つのこと」 西中学校科学研究部2年
 「燃料電池をつくる」 北中学校1年
 「麺はどれくらい伸びるのか」 松崎中学校1年
 「地震の揺れから建物を守るにはどうしたらいいか」 天王寺川中学校2年
 「ブーメランの謎」 天王寺川中学校2年

 当館からは高橋晃次長兼推進部長が審査員として出席され審査にあたりました。天王寺川中学校2年生の研究「ブーメランの謎」が「ひとはく賞」に選ばれ、高橋次長より表彰状が授与されました。

 これらの発表は、2月11日当館で開催される「共生のひろば」でポスター発表されます。

西岡敬三(生涯学習課)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして44

お隣の山地民
『ゾミア――脱国家の世界史』書評-2

三谷 雅純(みたに まさずみ)


 霊長類学や古人類学では、ヒトの進化を百万年単位で考えます。有名なアルディピテクスは、だいたい五百万年前とか四百万年前とかに生まれましたし、教科書でよく見るアウストラロピテクスは、およそ三百万年前に生きていたと言います。わたしたち現生人類(ホモ・サピエンス)にしても、すでに二十万年という歴史を経てきているのです。ですから、スコットさんが『ゾミア:脱国家の世界史』の中で問題にしている千年、二千年という時間感覚は、霊長類学者や古人類学者にとっては「瞬間」にすぎません。山地民の識字率はゼロに近くても、読み書きをする潜在能力があることはもちろんですし、いったん水稲農耕をしていたといっても、もう一度狩猟をする能力は、あるのが当たり前なのです。低地に住んでいた農耕民が、狩猟採集をする山地民になったとしても、何も不思議なことはありません。

 わたしたちの思い込みとは、ヒトの社会の歴史は決まった方向に進むと信じていることです。長い長い狩猟採集の時代があって、後に牧畜や焼き畑のような「雑な」農耕の時代を経て、「合理的な産業としての農業」の時代――アジアの例では「灌漑設備の整った水田耕作」――になるのだと思いがちでした。社会ダーウィニズムはそうした考え方をします。ヒトや人の自然への働きかけは、ゆっくりとだが、しかし、確実に効率的になり、まるで単線を走る列車のように決まった終着地に着く。それまで走り続けるというのです。この考え方では、社会が後戻りをすると脱線してしまいます。つまり滅びるのです。カール・マルクスの『資本論』 (1) も、こんな考え方をしていたはずです。

 ところが、このわたしたちのこの思い込みは、「国家」という統治機構が創造したのだと言えそうなのです――現代の国家観では、元来、「国家」を統治するのは「国民」ですが、ここでは、あたかも「人格のある人間のように振る舞う国家」が、人びとにある事を信じ込ませたということです。スコットさんはそのことを、「理想と現実の矛盾に気づいた地域の人々や帝国の役人たちは文明論が単なるぺてんにすぎないと見抜いていた」(p 341)と表現します。

 ごく大雑把には、霊長類学でも同じような段階は想定しているのですが、それは十万年とか百万年を単位として考えた時の話です。人間が歴史時代になってからの話ではありません。『ゾミア:脱国家の世界史』の中で展開される横暴な政治の支配と支配される人びとの逃避の物語では、まったく時間感覚が違うのです。

☆   ☆

 『ゾミア:脱国家の世界史』はディアスポラ(diaspora:国外離散者=風に舞うキク科のタネのようにバラバラになった人びと)やエグザイル(exile:故郷喪失者)の物語です。そして山地民とは、新しい文化を創り出した人びとでした。同じような立場には、ユダヤ人やロマの人びと(昔はジプシーと呼んでいました)、サハラの「ベルベル人」と呼ばれる多くの出自を持った人びとがいます。最近の研究では、南アメリカのヤノマミやトゥピ・グアラニーといった狩猟採集生活で生きる人びとも、インカ帝国や植民地時代のスペインの支配を避けて避難したエグザイルだということです――クロード・レヴィ=ストロースが明らかにしたかった「原始時代から続く人間の『親族構造』や『神話構造』」というものは、どう考えるべきなのでしょう?

 ディアスポラやエグザイルと言えば、サハラ以南の熱帯林に住むバンツー諸語を話す人びともそうです。バンツーは森の民ではなく、もともとサバンナに暮らす農民だったのです。それが、今から三千年とか四千年いう時代に地球全体が乾燥化して、サハラに住む人が南下したために、押し出されるようにして森に逃げ込んだ故郷喪失者だと言います。

 確かにバンツーの村は、熱帯林のただ中にも関わらず丁寧に草を引き、家の前にゴミなどは落ちていません。これはサバンナに似た雰囲気を作ろうと努力しているのだと聞いたことがあります。

 森の奥の村までは、中央政府も統治(支配?)できません。そのため、バンツーの村では、今でも人びとの自治が生きています。この自治のためでしょうか、時には村と村の「戦争」(とバンツーの青年がそう呼んでいました)が起こることがありました。カメルーンのファング(Fang)という集団は、さかんに小さな「戦争」をしたことで有名です。これも大きな「国家」の支配を避ける意味では有効だったのかもしれません。

 バンツーとピグミーの交渉には、ゾミアの低地に住む水稲農耕民と山地の狩猟採集民や焼き畑農耕民と似たところがあります。バンツーが畑で取れたキャッサバ芋を提供し、ピグミーはダイカーというウシの仲間の肉や森で集める野菜=グネツムの葉といった物を交換するのです。ただ、ミトコンドリアDNAの分析から、バンツーとピグミーは数万年前には別れていたことが分かっています。その点、ゾミアの歴史とは根本的に異なるのだと思います。それでも、森という見通しの悪い場所は、バンツーに絶好の逃避地を提供しました。バンツーが何か横暴な権力から逃げたというのなら、バンツーはゾミアの山地民と同じ境遇にいたことになります。

☆   ☆

 中尾佐助さんの「照葉樹林文化論」は、ゾミアの山地民と同じ地域の文化を基に展開しています。焼き畑農耕、粘り気のある芋やアワ・ヒエといった穀物、陸稲(おかぼ)とかソバとかいった、いういろいろな作物を植え、発酵食品を好む文化は日本にもたらされたといいます。それが西日本の文化の基層になったという仮説です。発酵食品でいえば、例えば琵琶湖のフナ鮨に似たナレズシは中国の貴州省に住んでいるミャオ(Miao)も作りますし、日本の糸引き納豆も、似たものがゾミアを超えてインドネシアにまであります。日本列島とは、言うなら「海に隔てられたゾミア」でした。

 日本列島の基層文化とゾミアの山地民の成り立ちとは異なるところがあります。それは水田稲作文化を持ってきたことです。これは佐々木高明さんが書いた『照葉樹林文化とは何か――東アジアの森が生み出した文明』 (2) の195ページに載っていたことです。縄文時代の終わり、弥生時代の始まりの頃でしょう。この時代、水稲農耕の起点とされるようになった長江の下流域では何があったのでしょう? 今の上海あたりの出来事です。

 想像するしかありません。思うに「横暴な支配者」に耐えきれなくなった低地の水稲農耕民が領地を逃げ出し、海を越えて、本来のゾミアである山地に代わって九州に渡ってきたということではないでしょうか? 海に漕(こ)ぎ出すことは、山や森に隠れるのと同じ意味があります。「国家」の支配から逃れるためにです。しかも、渡った先にあったのは「未開の島」(=日本列島)です。中国の「帝国の役人たち」も、ここまでは追いかけて来ません。

 これが弥生時代の始まりと共に起こったとしたら、「日本」はエグザイル、つまり故郷喪失者が、直接、参加して作られた国だということになります。ただし、そのエグザイルも、水稲農耕という最先端の技術を持っていたために、この日本列島という「ゾミア」に(意に反して?)「国家」を作り出してしまいます。彼らエグザイルは、そのことを望んだのか望まなかったのか、今となっては分かりません。

☆   ☆

 ゾミアは日本でも研究が進んだ中世の「アジール」と似ています。「アジール」と呼ばれる場所はゾミアほど広くはありませんが、権力の支配が及ばないところとされています。例えば神社やお寺だそうです。歴史家の網野善彦さんのお書きになった『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』 (3) によれば、犯罪者や離婚をしたい女性ばかりでなく、盲人やハンセン病者もアジールに逃げ込んだと言います。そのような多くの人が逃げ込んだのなら、権力の力が及ぶ一般の市井(しせい)に残った人とは、誰と誰だったのでしょうか?

 ヒトの地理分布は、二十万年前までの出アフリカの時代からディアスポラやエグザイルによって広げられました。彼らは地球の寒冷化や飢餓(きが)、病気といった止むに止まれぬ事情があって「ゾミア」に逃げ込んだのでしょう。しかし、それはまた、新天地を開拓する可能性も秘めていました。新天地とは住んで不便なことが多いものですし、思わぬ事件や事故で死んでしまうことも、よくあります。しかし、行かずにただ死を待つより、死んでしまうかもしれないが、それでも行く方がいいと覚悟を決めた出立(しゅったつ)だったのでしょう。わたしやあなたは、そのディアスポラやエグザイルの子どもなのです。

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(1) 『資本論 1』(岩波文庫 白 125-1, 882円)マルクス (著), エンゲルス (編さん), 向坂 逸郎 (翻訳)

(2) 『照葉樹林文化とは何か――東アジアの森が生み出した文明』(佐々木高明、中公新書、1,029円)

(3) 『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(網野善彦、平凡社ライブラリー150、1,223円)

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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