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2015年1月アーカイブ

ユニバーサル・ミュージアムをめざして63

 

ハンナ・アレントの『人間の条件』考-2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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 ハンナ・アレントの伝記

 〈子ども〉という存在は「小さな大人」ではありません。〈子ども〉は、異文化に生きる、大人とは異なる存在です。わたしたちはそのことを、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』という本で知りました。つまり、「異文化に生きる子ども」は決して支配するべき存在ではなく、教え、導きながらも、「異文化に生きる人」として尊重する必要があるという事です。

 

 「異文化に生きる子ども」の尊重は、よく言われる「子どもを導くことの放棄」ではありません。大人には(教師には、親や家族には、地域コミュニティを構成する大人たちには)、子どもにいつか受け継いでもらわねばならない価値観を、責任を持って示す必要があります。その責任を自覚しなければいけません。

 

 「国民国家」は形を変えて、「福祉国家」と呼ばれるようになります。その「福祉国家」は、さらに形を変えて、今では「ポスト福祉国家段階」に入ったと言われているそうです(『難民と市民の間で』:160ページ)。このあたり、わたしは教育現場に詳しくないので、実感としてはわからないのですが、学校を「監獄」のようなものと捉(とら)えたミッシェル・フーコーの視点から、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの言う「難民収容所」として捉(とら)える必要があるということのようです。

 

 どういうことかというと、「監獄」に捕らえられた囚人は更正して社会に復帰することが可能だが、「難民収容所」の難民は、見捨てられ、いつかは「忘却の穴」に捕まる。そして最初からいなかったことにされる。学校は「すべてではないにしても、ある意味において、見捨てられた状況に子どもがおかれるスクールカーストに象徴されるように、アガンペンが描いたような難民収容所化していく側面がある」(『難民と市民の間で』:160ページ)。

 

......このように冷静に分析されると、息を呑みます。思わず言葉を失います。

 

 それほど強いストレスにさらされたら、「異文化に生きる子ども」でなくとも、大人でさえ引きこもるには十分です。アレントが『人間の条件』を考えた時代は今とは異なりますが、わたしたちの周りを見ると、ヒトラーとナチズムに追いかけられ、亡命をし、難民として「忘却の穴」に捕まったアレントの時代と今が、それほど違うとは思えなくなります。

 

☆   ☆

 

 アレントが『人間の条件』で試みたことは、「私たちが行っていること」を問い直すことです。そこでアレントは「私たちが行っていること」を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けました。『人間の条件』:19ページから20ページからの引用です。少し長くなりますので、わたしが要点だと思った文章だけを引用します。

  

 労働 laber とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然の成長し、新陳代謝を行い、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。

 

 仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。(中略)仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。(以下、省略)

 

 活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、複数性 plurality という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、複数の人間 men であるという事実に対応している。確かに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの複数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要性であるばかりか、最大の条件である。

 

 アレントが言ったことを、わたしなりに解釈してみます。

 

 「労働」は人間の生物学的側面に重点を置いています。つまり、息を吸ったり食物を食べたりといった、生物学的なヒトとして必ず行わなければならない行為です。なぜ、人間の生物学的側面が「労働」という言葉で表されているのか、わたしには、よくわかりませんが、いずれにせよ、命ある存在は誰でも、寿命を全(まっと)うし、そして必ず死ぬという人間の基本的な条件です。

 

 「仕事」は自然や環境への人間の働きかけのことです。仕事の基本は手仕事から始まります。家でする作業であるか、職人の仕事であるかを問わず、何かを作り出します。作り出した品物の一部は市場(しじょう)によって「商品」となります。「商品」を公正に測るためには物差(ものさ)しが必要ですし、「商品」の抽象的な価値を定めるためには「貨幣(かへい)」が必要です。それに加えて、芸術家の「仕事」もあります。もともと芸術は、呪術や神話、「狂気」から作り出されましたが、今では「商品」として市場(しじょう)で交換されることがあります。

 

 このような「労働」や「仕事」は、一人の人間が世界とどのように向きあうかの問題です。つまり「労働」では自然の存在として、「仕事」では人工的に作り出す「工作物」の質が問題です。そしてアレントは、これらより、人間にはもっと重要な行為があると言います。それが「活動」です。

 

 「活動」では人と人の対話が基本になります。コミュニケーションが成立しているかどうかが大切なのです。古代ギリシャの例をひいたアレントは、とくに「政治的活動」を「活動」の中心にすえます。このことを現代風に言い直せば、「活動」とは「多くの人がいるコミュニティで社会活動に励む」といったところでしょうか? 「多くの人」とは、個性を持たない「不特定多数の人」のことではありません。一人ひとりが異なった、多様な意見を抱(いだ)いた多くの人びとのことです。多様な人びとだからこそ、対話が重要なのです。

 

 わたしたちの周りでは、実にさまざまな異論に出くわします。そして、そのほとんどが、(少なくともわたしには)最初は理解できません。なぜ、そんなことを言うのか、実感が湧かないのです。しかし、その多様な意見をよく聞いてみると、急に実感できることがあります。よく聞くことで、その人の生きてきた時代や生活する社会の背景を知ることができるからです。また自分とは認知の仕方が異なる、例えば、ろうや盲の人であれば、具体的な認知の異なり方を知ることで、その独特の意見が実感できるようになります。多様な意見は多様な原因から生みだされます。言うならば、それは「必然」なのです。それを知ってなお無視することは愚かです。その愚かさをこそ、知るべきです。

 

 アレントの言い方とは違いますが、彼女の言葉をわたしなりに意訳し直せば、以上のようになります。

 

 アレントは、現代では「活動」が廃れて、人びとが対話をしなくなった。その結果「仕事」だけが残った。しかし、これは人間本来の生活ではないと考えました。人間が人間であるためには政治家のように忙しいだけではだめで、哲学者のような静かな思考が必要だと言うのです。確かに政治家をはじめとする実務家には余裕がありません。もう少し哲学的な思索が必要です。ただし、静かに考えているだけでは社会が廻らないというのも事実です。現代という時代に生きる人びとが哲学者(や黙考する人びと)を軽く扱いすぎていることは恥じるべきですが、同時に実務家の存在も重要です。その時、誰も彼もが物事を考えず、『イェルサレムのアイヒマン』のように真面目に、淡たんと「仕事」をしていたとして、それが必ずしも人びとに幸福をもたらさない。そのことも、心して知っておくべきです。

 

☆   ☆

 

 科学者として人間の行動に興味があるわたしの立ち場で、アレントの言ったことを、もう少し突っ込んで判断してみます。まず、アレントが「労働」と呼んだ行為についてです。人も地球の上で動物から進化したのですから、ヒトの側面を持つことは当然です。人間は他者の心はわからない。ただ類推するしかない。我われに、いわゆる「超能力」などはないのです。その時、たまたま類推のじょうずな人が「空気の読める人」であり、苦手な人が「空気が読めない人」と見なされる。しかし、本当は誰も他者の心は読めないのです。その意味で、人は誰でも五十歩百歩です。「空気の読める人」の類推した「他者の心」だと信じるものは、実際に他者が思っていることとは異なるかもしれないからです。

 

 わたしにとっては「仕事」と「活動」が、なぜアレントのように二分されるのか、本当のところはわからないままでした。「仕事」とは社会で行われる基本的な行為です。社会で行われるのですから、必然的に、自分以外の他者と交渉を持たなければなりません。そこでは必ず、コミュニケーションが付いて回ります。昔の職人は寡黙(かもく)でしたが、うまくはないにせよ、コミュニケーションなしに「仕事」が成立したとは思えません。先ほど現代的な「活動」を「多くの人がいるコミュニティで社会活動に励む」ことと言い直してみましたが、現代の市場経済社会では、「仕事」には必ずお金が絡むだけで、「市場経済社会」という足かせを取っ払ってみれば、「仕事」も「社会活動」も、人が人とコミュニケートすることには、何も変わりはありません。

 

 これは「アレントへの反論」ではなく「多様な見方のひとつ」です。

 

☆   ☆

 

 アレントの『人間の条件』は、ナチズムの時代を生きたユダヤ人の「歴史に裏打ちされた哲学」という意味で、共感できる点が数多くありました。しかし、古代ギリシャの人びとの考え方や、ヨーロッパの歴史感覚にはなじめないものも感じました。

 

 その上で、わたしが疑問に思ったのは、次のふたつです。

 

 ひとつは、アレントは古代ギリシャの自由市民の考え方を理想において「公的領域」(≒「公共空間」)を考えました。では、そこに欠けている奴隷の考え方――「奴隷」という立ち場におかれた人びとの考え方、感じ方は『人間の条件』のどこにも書いてありませんでした――は考慮しなくてよいのかということです。

 

 これは、わたしでなくても、現在の価値観を身に付けた常識のある人なら、けっして「考慮しなくてよい」とは言いません。アレントも常識人です。ただ「哲学」という「言葉にこだわる学問」を研(みが)いた人です。「奴隷の考え方が明確に理解できる記録がないから、言及しなかった」ということかもしれません。しかし、わたしには疑問に思えました。

 

 ふたつ目はアレントや『難民と市民の間で』を書いた小玉重夫さんやフーコーが、あたかも、かつての帝国主義国家が人格を持っているかのように国民の「私的領域」、つまり「プライベートな事柄」に踏み込み、「産めよ、増やせよ」と軍国主義をあおったと読める記述があったことです。「国民」はまだしも、抽象的概念である「国家」は物事を判断できません。「国家」に人格はないのです。だとすれば、「国家」に代わって「産めよ、増やせよ」とあおった誰かがいるはずです。それは誰だったのでしょうか?

 

 王さまでしょうか? それとも、その時代の政治や軍の実権を握っていた誰かでしょうか? このことを考えていて、わたしは、ある考えに思い至りました。それは、またしても「同調圧力」でした。人格を持った個人は、王さまや実権を握っていた誰かも含めて、悪人ではなかったのかもしれない。しかし、その人たちが集団となり、個人の感覚や感情ではなく、考える行為を放棄したときに生まれたのが「同調圧力」だったとすればどうでしょうか。その「同調圧力」で、「産めよ、増やせよ」とあおったのかもしれない。『イェルサレムのアイヒマン』の中で、アレントはアイヒマンのことを、疑問も持たず、ただ与えられた職務をこなした「凡庸な役人」と呼んでいたことを思い出しました。

 

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

ユニバーサル・ミュージアムをめざして62

 

ハンナ・アレントの『人間の条件』考-1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

Hannah Arendt_illust.jpgハンナ・アレント(wikipedia より引用)

 

 子どもたちの世界には、〈スクール・カースト〉と呼ばれる現実があるそうです。クラスの中に身分制のような序列がある。そのカーストにいったん捕まると、抜け出せない子どもがいる。下のカーストにされた子どもは〈引きこもり〉、やがてクラスのみんなはその子がいた事も忘れてしまう。まるで子どもの「難民化」です。

 

☆   ☆

 

 なぜ故郷を捨てて、危険を冒してまで見知らぬ土地に旅立つ人がいるのだろうかと、このところずっと考えていました。死ぬかもしれないのにです。などと書くと、わたしやわたしの家族がどこかに旅立ちたがっているかのようですが、そうではありません。このことを考えはじめたのは、昨年の冬に『ゾミア』を読んだからです。『ゾミア』によれば「遺伝子のつながった民族」などは後から為政者が作りあげた虚構にすぎず、実際は、遺伝的にはあまり関わりのない雑多な人たちが、「新しい民族」を創り、勢力を競ったといったことがよくあった。そのことを知ったことが始まりでした。

 

 『ゾミア』はイエール大学の人類学者:ジェームズ・C・スコットが書いた本です (1)。2009年にオリジナルが出て、2013年10月に日本語の翻訳版が出ました。「ゾミア」とは東南アジア大陸部の広大な丘陵地帯を指します。ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ(=ミャンマー)と中国の4省(雲南、貴州、広州、四川)が含まれます。人びとは山の斜面に小さな村を作って住んでいます。中国の漢族やタイ、ビルマといった、水稲耕作が基本の大きな国家とは異なった倫理観や宗教を保(も)つ、言うならば、大きな国家からは独立した「自由な民族」です。

 

 わたしたちの周りにも多くの異民族が混じり合い、ひとつのコミュニティで同居しています。日本列島のなかでも、昔からさまざまな人たちが混住した歴史があります。多様な文化が花開き、さまざまな言葉が話されました。中には権力者による移住もありましたが、経済的な理由や、ことによったら冒険心から故郷を離れ、移住し、混住したコミュニティもあったと思います。それは一種の「聖域」とか「自由領域」に当たるのでしょうか。つまり統治権の及ばない「アジール」です。

 

 新しい集団が生まれるには人と人の出合いが必要です。その出合いのためには、出会うまでの間、さまよわなければなりません。では人は、どんな時に故郷を離れる決心をするのでしょうか。そのことを確かめようと、ハンナ・アレントの『人間の条件』(2) を読んでみました。ただし、アレントは哲学者であり、『人間の条件』はアレントの哲学的な思考の結果です。わたしがそのまま読むのは難しい。そこで、アレントの思想を長く研究してこられた矢野久美子さんの『ハンナ・アーレント』(3) をあらかじめ読んで下準備をし、『人間の条件』を読んだ後、さらに教育哲学者の小玉重夫さんが書いた『難民と市民の間で』(4) を読んで、わからなかったところを補おうとしました。

 

☆   ☆

 

 ハンナ・アレントの『イェルサレムのアイヒマン』(5) のことは、たしか開高 健のルポルタージュ (6) で知っていました。記憶はおぼろげですが、開高もアレント同様に、アウシュビッツでユダヤ人殺害を命じたアイヒマンを、「凡庸な役人」と評していたように思います。

 

 『イェルサレムのアイヒマン』は『人間の条件』の後に書かれています。この本の主張は、「アイヒマンはナチズムへの盲信によってユダヤ人を殺害した冷酷な人物」という世論に反し、「どこにでもいる、凡庸な役人のひとりであった」というものでした。この主張からアレントには大変な非難が巻き起こり、彼女はユダヤ人の友人を次つぎに失ったということです。

 

 アレントはドイツで生まれました。ユダヤ人でしたがユダヤ教徒ではなく、両親は社会民主主義者だったそうです。

 

 学生時代は、すでに家族を持っていた大学教員マルティン・ハイデガーと恋仲になりました。しかし、ハイデガーはナチに優遇され、大学の総長にまで登りつめます。一方のアレントは大学を去り、同じユダヤ人の哲学者カール・ヤスパースに指導を受けて博士論文を執筆しています。そのヤスパースもユダヤ人であったために大学を追われてしまいました。アレントもドイツを追われ、フランスのパリに亡命したのです。「ドイツで大学教授たちのナチへの同調を目の当たりにした彼女は、二度とこうした『グロテスクな』世界とかかわるまいと考え」たそうです(『ハンナ・アーレント』:51ページ)。

 

 ところがフランスはドイツに宣戦布告し、ドイツから亡命したアレントたちは、ユダヤ人であるかどうかの区別なく「敵性外国人」として強制収容所に入れられます。アレントはこの収容所体験をあまり詳しくは語っていないそうですが、劣悪な環境だったことは間違いありません。この収容所体験の後、収容所を逃げ出したアレントたちは、アメリカに亡命します。大著『全体主義の起原』(7) やこのコラムで取り上げる『人間の条件』、先に述べた『イェルサレムのアイヒマン』などを刊行するはアメリカでのことです。

 

 『人間の条件』を読むときのキーワードに、「国民国家」「公共空間」「忘却の穴」といった言葉があります。

 

 現代では「国民国家」でない国を想像できないという人が多いのかもしれません。「国民国家」とは「国家」の構成員は「国民」であるような国家のことです。暗黙の了解として、「国民」は「同じ文化を担う民族」(拝外主義的な主張では「単一民族」)であるという前提があります。近代になってヨーロッパで起こった考え方だそうです。もちろん日本でも、例えば在日朝鮮人や在日台湾人(中国人)といった人たちはコミュニティの構成員、つまり納税をしている市民ですが、日本国籍の持たない人はよくいます。またアイヌ民族や琉球民族は日本国籍をお持ちですが、同調圧力が極端に高い日本では、まるで独自の言葉や文化を持たない「日本民族」のように扱われています。

 

 「公共空間」は『人間の条件』では「私的領域」と対比して、「公的領域」という言葉で表されます(『人間の条件』の43ページから132ページ)。もともとは古代ギリシャのソクラテスやプラトンの時代にさかのぼる考え方で、市民一人ひとりが議論をとおして社会正義を実現するといったことです。現代の「公共空間」は、本当は学校制度にこそ求められるべき(『難民と市民の間で』:43ページ)ですが、今、日本の学校は「公共空間」からもっとも遠い場所になってしまいました。「スクール・カースト」や「引きこもり」といったことに関連して、このことは後でもう一度触れます。

 

 そして「忘却の穴」です。このキーワードは『人間の条件』ではなく、『全体主義の起原』で出された概念です(『難民と市民の間で』:22ページ)。しかし、『人間の条件』を深く読むためには必要です。もともとはアウシュビッツなどで殺されたユダヤ人が、まるで最初からいなかったかのように歴史から消されてしまった事実を指します。収容者の名簿や記録から抹消され、個人の持ち物は焼き払われたのです。当然、収容所管理者は「ユダヤ人がいた」ことは知っていたはずですが、「ユダヤ人はいなかった」という暗黙の同調圧力が働いて、「記憶にないふりをしていた」ということです。このことも、現代の教育問題に関連して、後でもう一度触れます。

 

☆   ☆

 

 アレントは、「公的領域」、つまり「公共空間」がなくなり、民族性や性差、年齢といった個別の属性が見えなくなったら、さまざまな属性や個性をもって議論しあうことがなくなるという意味のことを述べました。それなら個人の差異を表す方法はなくなったのかと言えば、そうではなくて、「単一の価値尺度」(例えば「偏差値」や「収入」)がそれに代わったと小玉さんは解釈しています(『難民と市民の間で』:136ページ~138ページ、『人間の条件』:65ページ)。

 

 そもそも、なぜ近代の帝国主義的な「国民国家」では、「公的領域」で大切だったはずの個人の独自性が軽んじられたのでしょうか。わたしはそれを「水稲栽培の労働習慣」、つまり「コミュニティの構成員は皆、共同で労働しなければ水田耕作はなり立たない」からだと思っていました。しかし、ヨーロッパにアジアのような水田はありません。別の理由あるはずです。それは何でしょう?

 

 『難民と市民の間で』の143ページに、フランスの哲学者ミッシェル・フーコーが近代の権力は個人の「私的領域」(=プライベートな事柄)に介入し、それまでは公に口にすることがはばかられた「子作り」を問題にしはじめたと述べたそうです。わたしは思わずヒザを打ちました。ようやく合点がいきました。「富国強兵」や「殖産興業」が「国家の意思」として国民に要求され、「産めよ、増やせよ」とせき立てられる。軍隊を強くするためです。その影響は子どもに及び、元来、「公的領域」は個性の尊重がなされて当たり前なのに、個人の独自性は無視され、横並びの「単一の価値尺度」が横行するようになりました。日本では農家には「水稲栽培の労働習慣」があった上に、海外から「富国強兵」の外圧が掛かった。これが「同調圧力」というものの正体ではないのでしょうか?

 

 元来、「子ども」は「小さな大人」ではなく、〈子ども〉という異文化に生きる固有の存在です。そのことをわたしたちは、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(8) という本で知りました。「異文化に生きる子ども」とは、決して支配する存在ではなく、教え、導きながらも、「異文化に生きる人」として尊重するべきだという事です。

 

 『難民と市民の間で』には、「『忘却の穴』に落ち込む子どもの難民化」ということが述べてありました(154ページから161ページ)。今は社会全体に「同調圧力」が強いのだが、その中でも特に「同調圧力」の強い学校組織では、「空気が読めない」という理由で「スクール・カースト」の下位に追いやられた子どもは、子どもや教師の輪に入れてもらえず(=はいらせず)、引きこもり、やがてクラス一人ひとりの記憶から消えていく。まさに「『忘却の穴』に落ち込む子どもの難民化」です。

 

 次に続きます。

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(1) お隣の山地民『ゾミア――脱国家の世界史』書評-1, 2
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/01/post_1822/
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/01/post_1823/

(2) 『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480081568/

The Human Condition_FP.jpg

(3) 『ハンナ・アーレンと』(中公新書)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/03/102257.html

(4) 『難民と市民の間で』(現代書館)
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-1002-8.htm

(5) 『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)
http://www.msz.co.jp/book/detail/02009.html

(6) 『声の狩人』(電子版が出ていました)

(7) 『全体主義の起原』1,2
http://www.msz.co.jp/book/detail/02018.html
http://www.msz.co.jp/book/detail/02019.html

(8) 『〈子供〉の誕生  アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』
http://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html


 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

今年最初のKidsサンデーの1月4日、空にはひつじのような雲がゆったりと流れていました。

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☆☆☆本年もどうぞよろしくお願いいたします☆☆☆

◆『自然ってすごい!「ふわぽかラボ&プレイルーム」』
 『ラボ』では動物(ひつじ)、昆虫(カイコ)、植物(ワタ)がつくった、
 「ふわふわ」の3つの「わた」をよ~く見たりさわったりしました。
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 『プレイルーム』ではカードを作ったり、シカやタヌキなどの動物の毛をさわりました。
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 実はこのカード、ちょっとした「しかけ」が・・・・
 150104kidssunday (21).JPG              (こたえはページの最後に!)

◆『とっても簡単!化石のレプリカづくり』
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くわしくはコチラ!

◆『パネルシアター』

 「ね~うし、とら、う~、たつ、み~、うま、ひつじ・・・」
 みんなで大合唱して十二支を覚えました。
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さきほどのカード、めくってみると
150104kidssunday (22).JPG                        ・・・こたえはひつじでした!

皆さんが今日着ているセーターもひつじの毛が使われているかも!
服のタグをチェックしてみてくださいね!

次回のKidsサンデーは3月1日(日)です。

寒い冬を乗り切って元気にお会いしましょうね!

(Kidsひとはく推進プロジェクト/たかせゆうこ)

 

三が日も明け、冬休みももうすぐ終わってしまいますね。
ひとはくは明日の1月5日(月)から2月6日(金)までメンテナンス休館となっておりますが、その前に
3日・4日と、「うきうきワークショップ・アンモナイト化石のレプリカ作り」をさせていただきました!

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冷え込みにも負けず、たくさんのお客様に参加していただけました。
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上手に出来ました~~^^

さて、先ほどお知らせしたとおり、ひとはくは2月6日(金)まで長いお休みとなるのですが、
休館明けの2月7日(土)・8日(日)にも「化石のレプリカ作り」を行わせていただきます。
是非ご参加ください。

(フロアスタッフ 岩城)

新年明けましておめでとうございます。
旧年中はたくさんのご来館、誠にありがとうございました。
本年も宜しくお願いいたします。

ホワイトクリスマスならぬホワイトお正月ですね。
雪化粧をしたひとはくですが、1月3日4日と開館しております。
今日はそんな雪景色をご紹介したいと思います。

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朝一の深田公園の様子です。
一面雪景色...おや?
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!!



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お昼過ぎのひとはく周辺。
雪が解けてきて地面が顔を覗かせています。
が、池は氷を張ったまま...つめたそう~~


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夕方になったらさすがにほぼなくなってしまいました。
......雪だるま君はまだがんばってますね!(わかりますでしょうか?)

1月の開館は明日4日までとなっていますが、さて雪だるま君は明日までいてくれるでしょうか......?
是非お越しになって確かめてください

(フロアスタッフ 岩城)

新年明けましておめでとうございます。
雪が残る寒さの厳しい朝となりましたが、人と自然の博物館は、本日3日(土)より開館しています。
明日4日(日)も開館しています。


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明日4日は「Kidsサンデー」が開催されます。また、ミニ企画展「震災20年 ひょうごの活断層はぎとり展」、「震災20年 阪神・淡路大震災からの復興~市民まちづくりとみどりのネットワークの軌跡~」、トピックス展「ハマツメクサの分布拡大」が最終日を迎えます。この機会に是非ご家族でご来館ください。

Kidsサンデーの詳細はこちら
ミニ企画展、トピックス展のご案内

なお、1月5日(月)~2月6日(金)は、冬期メンテナンスのため休館いたします。ご了承ください。

【3日(土)のイベントの様子】
ホロンピアホールでは、NPO法人 人と自然の会による「ひとはくのお正月~日本の昔あそび~」が行われました。
会場では、凧揚げ、コマまわし、羽子板、お手玉、カルタ、百人一首が行われ、子どもたちが昔ながらのお正月遊びを楽しんでいました。

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ひとはくサロンでは、フロアスタッフによる『うきうきワークショップ「とっても簡単!化石のレプリカづくり」』が行われています。明日4日(日)も開催されます。みなさまのお越しを楽しみにお待ちしています!

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情報管理課 阪上勝彦

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