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ユニバーサル・ミュージアムをめざして84

「わがまま」の境界

三谷 雅純(みたに まさずみ)



 とんでもなく「わがまま」な人がいます。自分の思い通りにならないと、我慢できなくて暴れだします。そのような人の相手をしていると、誰でも疲れてしまいます。その疲れから投げやりになって、思わずその人の我を認めてしまうのです。

 発達障がいがある人の行動は、付き合った経験のない人には予想できないので「わがまま」だと誤解されがちです。でも、よく聞いてみると、その人なりの理由があるものです。

 自閉傾向のある人は「わがまま」だから「自分ひとりに閉じこもる」のだと誤解されています。でも、最近読んだ東田直樹さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』 (1) には、

「人として生まれてきたのに、ひとりぼっちが好きな人がいるなんて、僕には信じられません。/僕たちは気にしているのです。自分のせいで他人に迷惑をかけていないか、いやな気持ちにさせていないか。そのために人といるのが辛くなって、ついひとりになろうとするのです。」(13.みんなといるよりひとりが好きなのですか? p. 39)

とあります。東田さんも、心から人との関係を求めていることがわかります。しかし、人生の楽しみ方は多くの人(定型発達の人)とは違うのかもしれません。それを:

「僕らは、みんなに分からない楽しみを持っています。それは、自然と遊ぶことです。
 人とかかわるのが苦手なのは、相手が自分のことをどう思っているのだろうとか、何を答えたらいいのだろうとか、考え過ぎてしまうからです。
 自然は、いつでも僕たちを優しく包んでくれます。
 きらきらしたり、さわさわしたり、ぶくぶくしたり、さらさらします。
 見ているだけで吸い込まれそうで、その瞬間、僕は自分の体が生まれる前の小さな分子になって、自然の中にとけていくような感覚に襲われます。とてもいい気持ちで、自分が人だということも、障害者だということも忘れてしまうのです。
 自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の体を落ち着かせてくれるし、僕が嬉しい時には、僕と一緒に笑ってくれます。
 自然は友達にはなれない、とみんなは思うかも知れません。しかし、人間だって動物なのです。僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかも知れません。
 自然を友達だと思う心を、僕はいつまでも大切にしたいのです。」(47.自閉症の人の楽しみをひとつ教えてくれますか? p. 110-111)

とおっしゃっています。まるで研究者によくある人生の楽しみ方です。実はわたしも似た楽しみ方をします。ですから、東田さんのおっしゃることは、とても他人事だとは思えないのです。

☆   ☆

 もうひとつの「わがまま」が、我慢強い人によくある「我の張り方」でしょう。多くの人には耐えられそうもない状況で、我慢してでも、ひとつのことをやり通します。それはそれで尊いことですが、周りの人にはただの「わがまま」に思えて、辟易(へきえき)します。

 例えば体を動かすことが好きな人がいて、毎日、練習に励んでいるとします。ところが一日でも体を動かさないと、何か怠けているような気持ちになって、いたたまれないのです。時には、運動以外の大切な用事で一日が潰れてしまうことがあります。その用事は運動よりも大切なことなのに、当人は「運動をしていないこと」が気になってしかたがないのです。昔、体を何時間も痛めつけ続けないではおれないというレスリングの選手がいました。その人の「練習」は鍛錬を超えていて、もう「苦行」の域に達していました。そして、その人はすでに健康でなどありませんでした。健康であるかどうかは、二の次になっていたのです。

 ダイエットやボディビルにも、同じことがあります。ダイエットもボディビルも、もともとは健康のためにするものです。しかし、極端なダイエットやボディビルが健康を損なうことは、よく耳にします。皆さんの周りには、痩せ過ぎの若者や薬を飲んでまで筋肉を付けようとするボディビルダーはいませんか。

 でも、ひとつのやり方が習慣になると、ついつい習慣に溺れてしまうという経験も、よくあります。この「つい習慣に溺れてしまう」のは、人の、あるいはヒトの本質なのかもしれません。わたし自身、ほとんど習慣で物事をこなしているのです。

 我慢強い人も、誰かに強いられてしている のではなく、「そうしなければ生活ができない」という背景があった。根拠があるわけではありませんが、そんな気がしています。

☆   ☆

 哲学者の鷲田清一さんが写真家の植田正治さんとともに『まなざしの記憶』 (2) という本を書いていらっしゃいます。その「Ⅱ 跡」の中の「花を贈る」という文章に:

「花には、華やぎがある。妖しさがある。
 濡れがある。熟れがある。
 棘がある。毒がある。
 迷いがある。狂いがある。
 生きとし生けるもののいのちの悶えが、そっくり映されている。
 が、花は散る。枯れる。そして落つ。ここにもまたいのちの定めがくっきり映されている。だから、花を贈るというのは、やがて咲くこと、やがて萎むこともぜんぶひっくるめて、いのちのしるしを贈ることなのだろう。祝福はほろ苦いものでもあるのだ。」(p. 56)

とお書きです。わたしには「花」は「人」のように聞こえます。芽吹き、枯れ落ちるというのは、まるで当たり前の人生を過ごしてきた人の一生のように思えます。

 「わがまま」な性格には、まるで、わがままでない人との間に、明白な境界があるようです。しかし、よく考えると、その境界は曖昧です。「棘」も「毒」も、ましてや「迷い」も「狂い」も、すべて、わたし達の人生そのものなのかもしれません。

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(1) 東田直樹さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』は角川文庫(19802)で出ています。

(2) 鷲田清一さんと植田正治さんの『まなざしの記憶』は、角川ソフィア文庫で出ています。



三谷 雅純(みたに まさずみ)
コミュニケーション・デザイン研究ユニット
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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