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さまざまな人が創る社会-2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

H26_poster (elder).jpg平成26年度「障害者週間のポスター」最優秀賞(中学生の部) 
埼玉県立特別支援学校大宮ろう学園中学部三年 石渡 智樹 くん(埼玉県)

 新しい「障害者差別解消法」は2016年(平成28年)4月から施行される予定です.すべての障がい者の尊厳と権利を保障する法律です.国際連合(国連)の「障害者の権利に関する条約」や2011年に改正された「障害者基本法」が基(もと)になっています.

 

 「障害者基本法」の改正や「障害者差別解消法」の成立では,一般の方には耳に新しい考え方が取り入れられています.それは「障がいの社会モデル」「環境配慮」にプラスした個別の「合理的配慮」です.難しい言葉(ことば)ばかりなので,まず,それぞれどういう考え方かを説明しておきます.

 

 「社会モデル」は,「個人モデル」とか「医療モデル」と呼ばれる考え方と対比して示されます.「個人モデル」も「医療モデル」も同じ考え方です.例えば交通事故にあって手や足を失ったり,頭に外傷を負ったりすれば,手術やリハビリテーションが必要です.そして事故に遭(あ)ったのは運が悪かったのだとか,あるいは自分が不注意だっただけだと,わたしたちは考えてしまいます.これが「個人モデル」とか「医療モデル」と呼ばれる考え方です.

 

 右や左をよく確認してから道を渡れば事故には遭わなかったのに,ぼんやりしていた自分が悪い.自分の不注意で事故に遭い,病院に入院してお金が要り,その上,人生が変わってしまったのだ.誰か文句を言う筋合いのものではない.わたしたちは,つい,そんなふうに考えてしまいます.

 

 でも現実には「事故がよく起こる曲がり角」が存在します.少なくとも誰もがそう信じている場所があります.そこでは,人間なら誰でもうっかりしてしまう何かがあるのではないでしょうか.いわゆる「ヒューマン・ファクター」です.「事故が起こったのが社会の責任だ」――「事故の多い曲がり角」を作ったという意味で――というのは,いくら何でも言い過ぎですが,事故にあった不幸を,全部ひとりで背負うべきだと,わたしは決して思いません.ましてや遺伝的な変異やお母さんが妊娠していた時の事故で障がい者になったのなら,まったく当人の責任ではないのです.「障がい」というのは,望まない事故や病気,遺伝的な変異の結果をそう呼んでいるだけなのですから.

 

 「障がい者」も市民であることは間違いないのですから,市民社会の一員として,社会の主流にいる人たちと同じだけの義務と権利を持つはずだ.そういう考え方が「社会モデル」です.現在,世界の主な考え方は「社会モデル」になりました.

 

 「環境配慮」とは,今までにあったバリアフリー・デザインやユニバーサル・デザインのことです.できるだけ多くの人が活動しやすくなるような 心づかい を言います.ただ「多くの人に認識されていないけれども不便なこと」というのが現にあります.例えば,今,流行りのタッチパネルは視覚以外の手がかりがありませんから,視覚を使わない人の役には立たないでしょう.それに,マニュアルに頼った「ユニバーサル・デザイン」ふうの施設も,人によっては,かえって活動し難(にく)くなることがあります.

 そんな時,むちゃな要求でないのなら,個人個人の不自由さから出てきた要求であっても,ちゃんと応じるべきだという考え方が「合理的配慮」です.この考え方なら,困ったときには「困っている」と言えるのです.国や地方公共団体は,そんな要求に誠実に対応する義務があります.民間企業でも努力しなければなりません.公共財を作り,管理する公共団体が,市民――国民ではありません.日本の国籍は持たなくても,納税の義務を果たし,要求する当然の権利を持つ市民――から出た個別の,しかし,その人の身になってみたら当たり前の要求には,誠意をもって応えるのが当然です.

 

 学校教育で行われているインクルーシブ教育は,すでに「個別の要求に合った対応」がなされている例です.手話や点字は勉強をするために大切ですし,時間のかかる人には時間をかけて課題――例えばテストなど――に取り組むことが認められます.ついでに言えば,このような配慮は「障がい者」ばかりでなく,いろいろな社会的マイノリティにも認められなければなりません.

 

☆   ☆

 

 先ほど「市民」と書きました.しかし,「市民」とは誰の事でしょう.

 

 「市民」とは,我われ一人ひとりのことです.ここで言う「市民」は,例えば「市民運動」(=草の根運動:a grass-roots movement)や「市民劇場」(a people's theater)で使う「市民」のことを指します.「神戸市に住む人」という意味で「神戸市民」と言ったりもしますが,ここでは,「特定の行政単位に住む人」という意味ではありません.「個人で自分の意見を持っている人」とか「権利を行使し,義務を果たす人」といった意味です.赤ん坊や幼児,子どもは大人と同じような判断力がなくて「市民」とは認められないという意見もあるでしょうが,ここでは,人権を持った人は誰でも「市民」ということにします.赤ん坊はやがて意見を持ちますし,おじいちゃんもきっと意見を持っていたはずです.よそから来た人にも,当然,意見があります.ですから赤ん坊の△△ちゃんは(まだ税務署で納税はできせんが)「市民」です.認知症の○○のおじいちゃんも,モスレムで日本に来たばかりの□□の奥さんも,みんな「市民」なのです.

 

当然,障がい者も,誰に恥じることのない「市民」です.

 

 (ここからは障がい者に向けて書きます)

 

 「市民」であれば,権利があると同時に義務があります.「権利/義務」は片方だけでも行使できるようにも思いますが,それは誤解です.原理的にできません.「わがまま」な主張は,健全な倫理観から「許されない」のではなく,「主張」として成り立たないのです.例えば,ある人だけに生じた不自由を主張して,施設のどこかを直してもらうとします.それは確かに,最初は個人の要求でした.しかし,行政や企業の担当者が誠実に取り上げて,どうしたらいいのだろうと当事者といっしょに考え始めた時点から,それはすでに「個人の要求」ではなく,「公(おおやけ)の要求」になるのです.なぜなら,同じ不自由を感じている人は誰でも,その不自由さから解放されるからです.社会的に障壁だと気付かなかったことが,ひとりの主張や要求によって皆が気付けるのです.その時,社会がほんの少し変わるでしょう.その人は「権利」を行使するとともに,立派に「義務」を果たしたのです.

 

 障がい者や病人や,見知らぬ土地に来たばかりの人は,その土地に住む人と,あまり大切な話をした経験がありません.どうして大切な話をしないのでしょう? 障がい者の例で言えば,まず第一に,社会的主流にいる人とは主張が異なります――マヒがあって大きな扉(とびら)が開けられない,視覚を使わないので触れなければ理解できない,聴覚を使わないので視覚言語(=手話)や書き文字でなければ理解できない.だから,わたしに変わって扉を開けてほしい,触(さわ)れるようにしてほしい,視覚言語や書き文字を使ってほしい.多くの人にとって,このような要求は奇妙に聞こえるのかもしれません.ですから今までは,大抵の場合,このような要求を主張しても「わがまま」だと言われたり,おだやかに無視されたりしてきました.第二に,社会的主流にいる人の言語,つまり普通のしゃべり言葉(ことば)を使ってご両親や介助者が本人の主張(だと信じていること)を代弁してきたので,その人なりに論理を組み立てる練習ができていないのです.

 

 しかし,いくら説得力があっても,皆に伝わらないのでは主張になりません.「十分な理由」を共通の言葉(ことば)で示すことは,経験のあまりない人にとって大変です――本当に大変です――が,何が言いたいのかが わかるように説明する責任があります.言ってもどうせ「わがままを言うな」と怒鳴られたり,無視されるだけだとあきらめていては,いくら待っても伝わりません.

 

☆   ☆

 

 もう一つ,自分の不自由を主張するときに,ぜひ考えてもらいたいことがあります.それはさまざまな属性を持った他者の存在です.これも障がい者の例で説明しましょう.

 

 世の中には,実にさまざまな障がい者がいます.と言うか「障がいの社会モデル」では,社会の主流にいない人は誰でも,生活をしたり,仕事をする上で,いろいろな不自由を感じています.その不自由さは,別の障がい者にわかる場合もありますが,多くは理解できません.

 

 わたしは右半身のマヒがあり,失語症もあります.ですから,言葉(ことば)の出ない歯がゆさは――自分の内言語では,もちろん何を言うべきかがわかっているだけに.そして,うまく言語化できないと,自分でも考えていたことが思い出せなくなるので――痛いほど感じます.しかし,聴覚を使わない ろう者が太鼓の演奏会で感じる空気の振動感や躍動感は,説明を聞くまで,本当のところはわかりませんでした.ていねいに説明をしてもらったから,空気の振動から音楽を楽しむ術(すべ)がわかったのです.

 

 ろう者が太鼓の演奏会で感じる空気の振動感と同じように,新奇な感覚は社会的な主流に属する人ばかりでなく,ほかの障がい者にもわかりにくいのです.しかし,複数の障がい者が自分の不自由さだけを主張するのでは,聞く方は困ってしまいます.どうしていいかわかりません.そこは心を広く持って,自分以外にもさまざまなことに不自由を感じる人がいるという前提で,共に不自由を感じなくする方法を探るべきです.そうしないと「市民」として「権利/義務」を行使することにはならないと思います.それよりも「共に不自由を感じなくする方法」を探ることで,思いもかけなかったアイデアが湧くものです.

 

 一人ひとりの多様さを,皆で感じ,考えてみることにしませんか? そうして産み出される社会は,今よりも,ほんの少しだけ暮らしやすくなると信じて.

 

 いかがでしょうか?

 

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館
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