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「正義の倫理」と「ケアの倫理」

三谷 雅純(みたに まさずみ


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キャロル・ギリガン

 

 キャロル・ギリガン(Carol Gilligan)の名前は、丸山里美さんのお書きになった『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学』 (1) を読んでいて知りました。ホームレスとは、今ある社会制度からはずれてしまった人たちのことで、路上や河原、公園といった誰も私有していない土地や、山のように私有していても、あまり人の来ない土地で暮らす人たちです。かんたんな家を建てて定住している場合もあるのでしょうが、普通はブルーシートで作ったテントなどで暮らしています。

 そのホームレスです。圧倒的に男性が多くて、女性は全体の一割とか二割に過ぎないのです。それはなぜなんだろうという疑問が湧(わ)いて、丸山さんは女性ホームレスの事を社会学的に調べるようになりました。

 調べていくと、いろいろな事がわかりました。もともとホームレスは丈夫そうに見えませんが、それは病弱であったり、高齢であったり、障がいがあったりするためです。都市に住むホームレスは圧倒的に男性ですが、女性はホームレスを続けるには危険や困難が多く、また男性と違って女性は、その人が面倒を見ないと、やはりホームレスの男性――パートナーと呼べばいいのでしょうか?――は死んでしまうかもしれない、といった人間関係に縛られて、ホームレスにとどまり続ける人が多い事などです。

 その「人と人の関係」は、女性によく見られる――「女性独特の」というわけではありません――倫理観と呼んでよいのかもしれません。ここで「キャロル・ギリガン」が出てきます。

 ギリガンはアメリカ合衆国の心理学者で、大学の教員をしています。発達心理学者の立ち場から子どもたちの成長を観察していて、男の子と女の子ではものの考え方に違いが見られることに気が付きました。男の子は割り切った考え方をするのですが、女の子は人と人の関係を大切にするというのです。ギリガンはこのことを考えていって、『もうひとつの声』という本を書きました。それまで正しいと思われてきた規準とは別の規準で、人の成長や発達といったことを考えないと、女の子の発達はわからないと主張したのです。丸山さんは女性ホームレスによく見られるこの感性がギリガンの主張とよく合うと言います。このギリガンの本は、出版されると大きな論争を巻き起こしていったそうです。その影響は倫理学やフェミニズム、社会学といった分野に広がりました。

 ギリガンの主張をよくあらわす例として、「ハインツのジレンマ」が取り上げられます。少し長いですが、『女性ホームレスとして生きる』から引用します。『女性ホームレスとして生きる』の246ページにあります。

 発達心理学者であるギリガンは、道徳的葛藤状況のなかで選択を迫られた人びとが取る対応について研究するなかで、女性は道徳や人との関係について、男性とは異なる語り方をする傾向にあることに気づく。このことを象徴的に示すのが、「ハインツのジレンマ」と呼ばれる、有名な道徳性の発達指標に対するギリガンの疑問である。これは癌にかかった妻を救うために、夫のハインツは高価で買えない薬を盗むべきか否かを問うもので、その回答が男女では異なる傾向にあるとギリガンは言う。男の子のジェイクは薬を盗むべきだとはっきり答え、財産と生命を比べて生命の方が尊いと判断し、これを権利の問題へと修練させていく。女の子であるエイミーは、薬は盗むべきではないが妻を死なせるべきでもないと自信なさそうに答え、薬屋が二人の事情に配慮しないのがよくないのだと言って、これを責任の問題として解釈したのである。従来の発達理論においては、人間の発達は他者を気遣うことから、規則や普遍的な正義の原理にしたがう つぎの段階に漸進的に発達すると想定されて来たために、エイミーはジェイクよりも未成熟であると解釈されてきた。だがギリガンは、発達段階をはかるものさしが男性を規準につくられており、伝統的に女性の徳だと考えられてきた他人の要求を感じ取るという特徴こそが、女性の発達段階を低いものにしてきたことを指摘したのだった。(2)

 わたしは丸山さんの女性ホームレスの社会学を扱ったこの本とは別に、全く独立して柏木惠子さんの『おとなが育つ条件――発達心理学から考える』 (3) という本を読んでみて、「結びに代えて」の中で、再びギリガンの名前が出てきたので、びっくりしてしまいました。まあ、柏木さんは発達心理学者ですから、同じ発達心理学者(で、同じく女性研究者)のギリガンのお名前が出てきても不思議ではないのでしょうが、偶然読んだ二冊の本が、共にギリガンを引用していたのです。びっくりです。ギリガンという研究者は、本当にさまざまな学問に影響を与えたのです。

☆   ☆

 ギリガンは確かに、女性は周りの人の思いを考慮し、男性は周りの人の思いを気にかけるよりも原則に忠実だと言いました。わたしの身近にいる人を思い出してみると、当たっているように思います。男女は性によって役割が違うと主張しているかのようです。「性によって社会的役割が違う」という意見に敏感なフェミニストは、そこを批判しました (4)。

 しかし、ギリガンが『もうひとつの声』を書いた動機は、この本が出るまでは男の子にありがちな物事のとらえ方、つまり、周りの人の思いに左右されずに下す判断――冷静な判断であるとも、場合によっては冷酷な判断であるとも言えます――の価値が高く、女の子にありがちな周りの人の思いを考慮して下す判断は価値が低いという規準は、「男性優位の神話」にしか過ぎないという点にあるのです。その意味では、ギリガンもフェミニストだと言えます。

 現実には、「男性は周りを考慮せずに行動し、女性は気を使ってばかりいる」ということはありえません。わたしたちには誰にでも、育った環境や時代や文化によらず、どちらの傾向もあるのです。このふたつの考え方は、「正義の倫理とケアの倫理」と呼ばれたりします。ただ、ギリガンが『もうひとつの声』を書いた時には、その内の「正義の倫理」で現(あらわ)される男性原理だけが価値あるものとして認められ、「ケアの倫理」は本物の倫理的な規範とは認められていなかったのです(何と愚かな!)。

☆   ☆

 「ケアの倫理」は、今では、例えば看護師の持つべき倫理観として語られることが多いようです。看護師が「看護婦」と呼ばれた時代には、看護師は女性である事が当たり前でした。そのかわり医師は大部分が男性です。この暗黙の役割分担――そこには「看護婦と医者の身分差」もセットになっています――は、批判されて当然です。それが看護師と呼ばれるようになって、男性も看護に心を砕くことが当然になりました。また、今では医師とだけ聞いても、会ってみるまで男性か女性かはわかりません。つまり、男女ともに「ケアの倫理」を身につける事が求められるようになったのです。

 「正義の倫理」で想定されている人は「自立した責任ある個人」です。「自立した責任ある個人」が病人や障がい者や高齢者であってもかまわないのですが、病人や障がい者や高齢者は、いつも健康な精神を保ち続けているわけではありません。実際の病人や障がい者や高齢者では、気持ちが落ち込んでいる事がよくあります。その時には「ケアの倫理」が必要になります。他者の心を見つめる目が必要になるのです。

 ただし、「ケアの倫理」では「ケアをする人」と「ケアを受ける人」が出てしまいます。これが親と子どものような関係であれば、おとなが子どもの世話をする事は当然だと受け取る人が多いでしょうから、<ケアをする親/される子ども>で何の不思議もありません。おとなが子どもの世話をするという意味でなら、幼稚園や小学校・中学校も同じでしょうし、里親と血のつながりのない子どもでも同じです。ところが、おとなとおとなの間に「ケアをする人」と「ケアを受ける人」が生まれると、関係は急に非対称性がクローズ・アップされてしまいます。「ケアをする人」は一方的にケアを施し続けねばならず、「ケアを受ける人」はケアを受けなければ生活できないという事態になってしまうのです。これでは「ケアをする人」の負担ばかりが増え、「ケアを受ける人」は気が重くなってしまいます。「する側・される側」の両方がストレスを溜めてしまいます。

 看護師だとか教師であれば、まだ労働の代価がお金で支払われるのですから、(お金で納得できるのであれば)それもいいかもしれません。しかし、人と人の関係はお金で解決が付くとは限りません。老いた親を子どもが面倒を見る時でも、例えば、ほかの家から嫁いできたお嫁さんが義父や義母の面倒を見る時は、報酬を支払う/もらう関係とは異なるでしょう。それが「障がいのある、すでに成人した人の世話をし続ける他人」となったらどうでしょう。果たして自分は「ケアの倫理」を保ち続けることができるかどうか、とても自信がない、とおっしゃる方は多いのではないでしょうか。

 ヒトの行動生態学には「互恵的利他行動」と呼ばれる概念があります。普通、動物は自分と遺伝的に近いコドモや兄弟を助けて自分の遺伝子が残るようにするものです。ところがヒトは、必ずしも遺伝的に近い家族だけを助けるのではなく、遺伝的には関わりのないヒトまで助けてしまいます。困っている他人を助ける。それが、次に自分が困っている時には助けてもらうことにつながる。……この繰り返しによって、親切のネットワークは広がっていきます。こんな行動を、特に「互恵的利他行動」というのです。

 「ケアの倫理」は「互恵的利他行動」と関係が深いと思います。同じ事かもしれません。ただ、違うように見えることのあります。「互恵的利他行動」では、親切のネットワークは巡り巡って、いつか自分にもいいことが返って来るのです。「互恵的利他行動」を取る人が、その事を自覚しているかどうかは別にして――報酬を当てにして「親切に振る舞う人」というのは、あまりいないでしょう――、少なくとも、他人に親切にすれば人間関係がよくなり、気分よく日びが送れることは確実です。

 「互恵的利他行動」とは、普通、動物の世界ではあると考えられない利他行動が、ヒトに進化している。それはなぜなのだろうと考えた理論的な結論です。実際の具体的な人がその事を認識している必要はありません。知らなくてもやってしまうから、行動が進化で語れるのです。それに対して「ケアの倫理」とは具体的な人間の行動規範です。必ずしも、「知らなくてもやってしまう」というものではありません。しかし、ギリガンが指摘したように、この規範はヒトの遺伝子に書き込まれた行動であるかのようです。つまり、知らない間に、ついやってしまう行動という意味です。

 「ケアの倫理」でも直接の利益は期待できないのかもしれません。しかし、巡り巡って「親切のネットワーク」は自分にも及ぶのです。ユニバーサル・ミュージアム(=開かれた生涯学習施設)では、「ケアの倫理」は、あって当然です。そこに「直接の利益」、例えば「集客数が上がるから」とかいうのは、かなりピントはずれの態度です。
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(1) 丸山里美さんの『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学』(世界思想社)は:
http://sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&code=1593

(2) 英語ですが、この「ハインツのジレンマ」のくだりは、インターネットに公開されていました。
https://lms.manhattan.edu/pluginfile.php/26517/mod_resource/content/1/Gilligan%20In%20a%20Different%20Voice.pdf

(3) 柏木惠子さんの『おとなが育つ条件――発達心理学から考える』は:
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k719.html

(4) 例えば東京大学におられた塩川伸明さんは、ギリガンの『もうひとつの声』を書評して「上野千鶴子はギリガンの議論を、かつてのような生物学的性差還元主義とは異なるものと認めた上で、それでも文化と社会の中でつくられるジェンダーを逃れるのは難しいという理由で『女性性』を固定化・本質化する――但し、かつてのようにそれをおとしめる代わりに、むしろ肯定的意義を付与して賞賛する――ものだという風にまとめる」と書いておられます。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/books/Giliganpdf.pdf

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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