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◇ 防災緑地・防災公園

 都市緑地とは、都市の中の建物などが建っていない空間のうち道 路や鉄道など特定の用途に用いられるものを除いたものです。具体 的には公園や広場、墓地などが都市緑地にあたります。緑地は、日 常生活の中では、居住者や勤労者の休息や、環境の緩和など、「都 市の肺」と呼ばれる機能をになっています。その一方で、緑地は火 災が延焼しにくく、また頭上に物が落ちてこないため、本質的に防 災的な機能を持っています。緑地のいろいろな機能のうち、火災時 の延焼防止機能や、地震後の避難場所としての機能、水害時の遊水 池機能など、災害時に発揮される機能に着目して緑地計画を行う場 合、その緑地を防災緑地とよぴます。 防災緑地の歴史  ここで地震や大火災などの災害に何度もさらされてきた東京を中 心に、日本の防災緑地の歴史を概観してみましょう。  火事と喧曄は江戸の花というように、江戸では火災が頻発しまし た。山手は寺の境内と武家屋敷の広い敷地が連続し、延焼の危険性 が低かったのですが、繁華な下町は延焼しやすく、広場をもうけた り、道幅を広げたりすることで延焼防止機能をもたせました。しか し、時代が下ると、芝居小屋などが密集して防火機能を失い、むし ろ出火地点となる危険性が高くなったのです。  明治期に入り、上下水道・道路・緑地など、都市基盤整備を目的 とした東京市区改正の際には、西洋都市計画にならった計画的公園 配置が企てられましたが、日清、日露の両戦争の戦費調達のため計 画縮小を余儀なくされました。  大正初期には、近代化により東京は膨張し、乱開発が目立ってき ました。そこで、空地の割合や、建物の壁面の位置などの最低水準 を設定する都市計画法が定められ、一定の空地が確保でき、都市の 安全が確保できたかに見えました。しかし、大正12年の関東大震災 では、同時多発火災からの延焼が東京市の4割以上を焼き尽くし、 小さな緑地や、大きな緑地でも植栽のないものは延焼防止、人命保 護の機能が不十分なことが明らかになりました。このとき、後藤新 平らは旧状の復元(復旧)ではなく、よりよい状況への改造(復興) を提唱しました。その後の震災復興計画では後藤案にくらべやや縮 小したものの、大公園を計画的に配置し、小公園を植栽の少ない小 学校庭に隣接させて一定規模以上の緑地を構成させ、公園内に積極 的に木を植えるなど震災から得た知恵を組み入れて公園計画が練ら れ、都市の大改造がなされたのです。しかし、戦災復興計画の矢敗 により、これらの緑地網の姿は原型をとどめないまでになっていま す。 防災緑地と時問  このように、防災緑地は常に歴史との衝突にさらされてきました。 この問題の本質は、防災計画は、本来不易流行の不易の部分である べきなのに、災害のもつ一時性のために流行として扱われてきたこ とにあります。防災緑地を計画しようとすれば、10年後、50年後、 100年後までも存続する防災機能とは何か、それを存続させる仕組み とは何かということに重点をおいて計画するべきです。 これからの課題  現在、新聞やテレビでは、食料・毛布などの備蓄を公園の地下で 行うことを防災公園として紹介していますが、これは緑地から被災 者支援のための施設への転用であり、本質的に建物を建てないこと に依拠する防災緑地論からはずれています。ただ、防災緑地と被災 者支援施設の隣接という重要な課題を満たすための簡単な方法の一 つであるといえるでしよう。また、土地区画整理で生じた高層ビル 群の間に大公園を設けて防災緑地とするとの案もあります。この場 合は、ビルの耐用年数は数十年なのに対し、今回起きたような地震 災害の起きる間隔はその十倍以上はあると思われるので、建物の建 てかえなど、予期される変化をこえる長期間、防災機能を維持する ことが次の課題となるでしよう。 (環境計画研究部池口仁) 「復興する小学校園」関東大震災後の小学校と小公園の一体的な整備案。 東京市作成。越沢明(1991)「東京の都市計画」より転載。

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Copyright(C) 1995,1996, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 1996/01/12