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シリーズ「人と自然,地域と向き合う-人博の多様な調査・研究活動の歩み」-demo

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兵庫県立人と自然の博物館は,1992年10月の開館からすでに27年目を迎えました。2022年10月の開館30周年に向けて,開館後に本館の研究員が進めてきた調査・研究活動の歩みを,研究現場の貴重な写真やいろいろなエピソードとともに,わかりやすく,おもしくろく解説します。兵庫県を主とした,大地とそこに暮らす生き物,人とそれらとの関わり,人の暮らしなどに関わるさまざまな題材をテーマとした調査・研究活動の醍醐味を楽しんでください。

第5回「意外と役立つアリの研究―博物館の研究が取り持つ人や社会との絆」(人とむきあう)

橋本佳明(兵庫県立大学 自然・環境科学研究所准教授
/兵庫県立人と自然の博物館主任研究員)


 私は博物館で世界中のアリを研究しています.博物館の研究や,小さな昆虫であるアリの研究など,人とは何の関わりもなく,社会の役には立っていないと思われるかもしれません.しかし,生物学としての成果だけでなく,アリの研究が人との関わりを紡ぎ出し,これまでに,様々な社会貢献も果たしてきました.ここでは,博物館の研究が,意外に,世のため人のために役立っていることを,少しだけ紹介したいと思います.

人博の研究員,ヒアリを迎え撃つ
2017年5月,博物館でアリの研究をしている私のところに,環境省から神戸港に陸揚げされた中国のコンテナに潜んでいたアリが同定のために送られてきました.そのアリこそ,日本で初めて侵入が確認された特定外来生物のヒアリでした.すぐに,ヒアリであると確認できた事で,ヒアリが潜んでいたコンテナが放置されることもなく,素早い駆除と的確な対策が実施されました.この時,発見されたヒアリは1000匹近い集団で,そこには女王アリや働きアリだけでなく,翅のある新女王アリやオスアリも含まれていました.もし,ヒアリと確認するのに手間取っていたら,その間に,羽蟻が飛び出して周囲に営巣していたかもしれません.ヒアリの新女王は5キロほど飛んで分散することができ,新しい巣は,早ければ7ヶ月ほどで,また,翅のある新女王アリの生産をはじめることが知られています.今頃は,兵庫県内にヒアリが蔓延し,人の刺傷被害だけでなく,年間20億円以上の農業被害など,様々な経済活動に巨額な損益をもたらしていた可能性もあったのです.
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写真1 ヒアリ(Solenopsis invicta
 ヒアリは,もともと南米熱帯のアリです(写真1).それが物流に運ばれて1930年代に米国に侵入,その後,経済活動がグローバル化する中で中国,台湾,オーストラリア,ニュージーランドと分布を広げ, 今、世界中が最も恐れている外来種になっています.このヒアリ発見は,改めて,国際貿易が盛んな兵庫県は外来生物の侵入リスクが高く、我が国の外来種問題の最前線に立たされていることを強く認識させることになりました.
 しかし,神戸市や兵庫県の環境行政部署には,もちろんアリの専門家などいません.兵庫県に人と自然の博物館があり,アリの研究者がいて,ヒアリの標本を始め世界中のアリの標本が収蔵されていたことで,国内初のヒアリ侵入を迅速に確認することができたのです.神戸港での初侵入以降,ヒアリの侵入は今も続き,2019年9月時点で,ヒアリの侵入は14都道府県に拡大し,発見されたヒアリの個体数は1万匹を超えました.この間,私の貢献も,単にヒアリの同定から,その対策に向けた研修会や対策マニュアル作成などのシンクタンク活動に広がり,貢献の場も兵庫県や神戸市だけでなく,環境省や岡山県,沖縄県など全国各地に拡大しています.
 中国との貿易が続く限り,ヒアリの侵入は今後も続くのは間違いありません.さらに,侵入が危惧されている外来アリはヒアリだけではありません.世界経済のグローバル化が益々進んで行く中で,これまで見たこともないアリたちが次々と現れる外来アリ大襲来時代に,日本の社会は直面しているのです.事実,特定外来生物に指定されるアリは,ヒアリ初侵入以降,4種から20種以上になっています.博物館でのアリ研究が,今後も,意外に,世の役に立つことは間違いないでしょう.

人博の研究員,子供たちをボルネオ・ジャングル体験スクールに連れて行く
ボルネオ・ジャングル体験スクールは,人博が兵庫県の小中高生に探究心や科学する心を育んでもらおうと,1998年から,生命の宝庫と呼ばれるボルネオ島で始めた環境教育プログラムです.毎年の夏休みに,20名ほどの子供たちが研究員と一緒に,ボルネオの熱帯雨林に1週間滞在し,その豊かな生物多様性が内包する不思議や驚きを体験しました(写真2).今でこそ,博物館や大学が海外で環境教育プログラムを実施することは珍しくありませんが,当時は,子供たちを海外に,それも熱帯雨林に連れていくジャングル体験スクールは,他に類の無いものでした.
 このユニークな事業に人博が取り組む契機になったのは,私のアリの研究でした.アリ類の多様性は熱帯地域で最も高いこともあり,私は世界中の熱帯林でアリの調査を行なってきました.特に,1994年から,毎年のように足を運んでいるのが,ボルネオ島の熱帯雨林です(写真3).そのボルネオ島にあるマレーシア国立サバ大学にアリの研究者がいると聞きつけて,1995年に,出会ったのがマリアッテイ博士でした.彼女はサバ大学に新設される熱帯生物・保全研究所の所長で,ボルネオ島の生物多様性を守るためには,自然史博物館の役割も果たす研究所が必要だが,その具体的な構想に苦慮していると熱っぽく語ってくれました.そこで,1966年に,彼女を人博に招待したところ,人博をモデルに研究所の設立に取り組みたいということになり,1997年に,サバ大学と人博で学術交流協定書を取り交わして,ボルネオでの標本収集活動から環境教育まで,両機関が協力し合って実施していくことになりました.ボルネオ・ジャングル体験スクールは,この協定書に基づく活動の一つとして始まったのです.
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写真2 ボルネオ体験ジャングルスクール,樹冠の吊り橋キャノピーウォーク 写真3 ボルネオ島の熱帯雨林.巨木の下でアリの採集

 スクールは,2014年まで,計15回続き,私がボルネオ島に連れいくことになった子供たちの数は500人を超えました.その中には,スクールでの体験が人生の切掛けになり,大人になった今,私のように,ボルネオ島で研究を続けている卒業生も現れました.アリの研究が紡ぎ出した人との関わりが,兵庫の子供たちの未来をも紡ぎ出しているのです.

人博の研究員,淡路花博でラフレシアを展示する
淡路花博は,2000年に,兵庫県が淡路島で開催した花と緑の国際博覧会です.この博覧会の目玉の一つが,世界最大の花と呼ばれるラフレシアを展示する熱帯雨林館でした.この熱帯雨林館の制作でも,私のアリ研究が紡いたボルネオとの関わりが役立っています.熱帯雨林館は「共生の森―ボルネオの熱帯雨林」をテーマにした展示館です.ボルネオで長く研究を続けてきた私は,兵庫県から協力の依頼を受けて,その制作に関わることになりました.ボルネオから採集した多様な動植物の標本を使って,熱帯雨林を再現する展示を制作したのですが,その中でも,ラフレシアは最大の難関でした.ラフレシアは,文字通り,根も葉もない寄生植物です.他の植物に取り付いて栄養を奪い,2年ほどかけて大きな赤い花を咲かせますが,開花するとすぐに結実して枯れてしまいます.咲いたばかりの綺麗なラフレシアの花を日本に持ってくるためには,その成長を,常時,監視しなければならないのです.
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写真4 ラフレシアの採集
 そこで,人博が学術協定を結んだサバ大学の熱帯生物・保全研究所の所長で,アリ研究仲間でもあるマリアッテイさんに,ボルネオに点在するラフレシアの生息場所を現地で監視してくれるように,お願いをしました.このことによって,ラフレシアの開花状況をオンタイムで把握することが可能になったのです.それでも,開花直後のラフレシアを採集するのは至難の技で,「そろそろ咲くよ」という連絡を受けてボルネオ島に三回飛んで行き,なんとか綺麗なラフレシアの花を採集することに成功しました(写真4).アリの研究が取り持つ絆が,実現不可能に思われたラフレシア展示を可能にしたのです.このラフレシア展示は,期待通り淡路花博の目玉となり,184日間の花博開期中に500万人を超える観覧者が,ラフレシアを見るために,連日,長蛇の列を作ることになりました.

博物館の研究が織りなす人や社会との絆
 私のアリ研究は,兵庫県だけでなく,ボルネオ島でも,その生物多様性保全に貢献しています.それが,国際協力事業団(JICA)が2002年からボルネオ島で開始したODAプロジェクト「ボルネオ生物多様性・生態系保全プログラム協力」です.
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写真5 サバ大学に設立した昆虫標本収蔵庫で実習
 このプロジェクトでは,長年ボルネオでアリの研究を続けてきた実績を買われて立案から関わり,プロジェクト開始後は,私自身がボルネオ島のサバ大学に計3年ほど赴任して,人博をモデルに,ボルネオ島で初めてとなる標本収蔵庫の設立に貢献しました(写真5).さらには,現地での分類学や標本収集・保管の能力向上のために,サバ大学の教員や大学院生,そして公園局や野生生物保護局のスタッフに講義や実習を行いました.その成果として,私が教育支援したサバ大学が,今ではJICAと協力して第三国研修を担当し,アフリカなどからの研修生を引き受けるほどになっています.この事業に関わった私も,毎日,英語で授業をしたおかげで,今や英語でも人を笑わすことができるほどになりました.私のアリ研究は,私自身の能力向上にも大いに役立っていると言えるかも知れません.
 ここでは紹介できませんでしたが,博物館での私の研究は,ボルネオだけでなく,昆虫記で有名なファーブルの生誕地であるフランス国のアベロン県との絆も紡いでくれました.この繋がりは,日本の自然史博物館が初めて共同で開催した「ファーブルに学ぶ」展で,大きな貢献を果たしました.このように,一見,世の中と隔絶したところにあると思われている博物館での研究活動は,博物館が社会教育機関であることで,実は人々と広く繋がり,社会に大きく役立っているのです.これからも,アリ研究がもたらす科学的な貢献を縦糸に,その活動が繋ぐ人や社会との関わりを横糸に,様々な貢献を織りなして行ければと思っています.

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第4回「ジャゴケを求めて西に東に」(標本とむきあう)

秋山弘之(兵庫県立大学 自然・環境科学研究所准教授)


 大学院に進学して以来ですから、およそ40年近く私は苔(コケ)を材料として研究を続けてきました。研究を始めた頃と一番違うのは、昔は苔なんて研究して何の役に立つのかと、さんざんにけなされることが多かったのですが、最近はマスコミでも苔のことが好意的に話題として取り上げられる機会が多くなってきていることです。苔の研究をはじめる前に親や親戚を説得する必要はもうないのかもしれません。また、当時はいろいろと探してもなかなか見つけられなかった苔の入門書が、栽培関係のものも含めてたくさん出版され、今ではとても入手しやすくなっていることも以前と違います。ちょっとした苔ブームといってもいいかもしれません。この小文では、そんな苔を材料としてどのような研究をしてきたのか、標本との関わりに焦点をあてるため、特に分類学の面から紹介してみたいと思います。植物学では苔のことをコケ植物と呼ぶことが多いですから、以下ではコケ植物という言葉をもちいることにします。
 中学校の理科で習うように、コケ植物には本当の根がなく、水や養分を通す維管束も発達していません。また受精して子孫をつくるのは、造卵器でつくられる卵と造精器でつくられる精子です(花の咲く植物では精子ではなく花粉がその役割を担っています)。精子は水の中を泳いで卵に到達して初めて受精が成立しますから、必然的に水から離れることができません。これが、コケ植物が花の咲く植物に較べて身体のサイズが小さいままである最も大きな理由です。無事受精が終わると、その結果できるのは種子(タネ)ではなくて胞子です。胞子はとても小さいため、容易に風で飛ばされて長時間大気中に漂うことが可能ですから、子孫をより広く遠くに送り出すことができます。そのため、大きくて重い種子をつくる植物に較べると、コケ植物は遠く離れた、例えば北米や欧州と日本列島で、もっと近ければ中国大陸と日本列島の間で、同じ種の植物が分布するのだと長い間考えられてきました。しかし、ここに落とし穴があったのです。

隠蔽種とは
 コケ植物はとても小さいですから、良く似た二つの個体を比較するとき、本当は存在する違いを見過ごしてしまいがちになります。違いを見逃すと、同じ種に扱われてしまいます(「種」は「しゅ」と読みます。専門用語でspeciesの和訳です)。昔は植物の種を見分ける手段は、形の違いに注目するしかありませんでしたから、それはしかたのなかったことなのです。しかしここ20年ほどで、細胞の中にあるDNAの塩基配列を調べて、その違いから種の違いを判定する手法が急速に発達してきました。その手法が広く採用されるにしたがって続々と判明したのは、遠く離れた場所に生育するいきもの同士は、たとえ人間の目には同じに見えても、別の種として扱うべきほどに違いがあるのだということでした。似た形をしていて人間の目では見分けるのがとても難しいけれども、遺伝的には種のレベルで異なるほど分化している場合があるのです。そういった非常に似ているけれども遺伝的に違うもの同士のことを「隠蔽種」といいます。コケ植物は、とりわけ小さくて見分けるのが難しかったので、これまでは同じ種が広い分布域に拡がって生育していると考えられていたのですが、実は複数の隠蔽種がそれぞれの場所ごとに生きていることがわかってきたのです。

ジャゴケ
 私はここ10年ほど、この隠蔽種問題について取り組んできました。なぜなら、これまでの研究者がうっかり見逃してきたことを、新しい手法を使って本当はこうなっているのだと解き明かしていくのって、なんだか自分が賢くなったような、ちょっとスマートな感じがするからです(とはいっても,見かけだけのことですが)。研究材料に選んだのはジャゴケ(蛇苔)という苔類(たいるい)の仲間です。ジャゴケは教科書でおなじみのゼニゴケ(銭苔)と同じように、葉状の平べったい植物体をしています。コケ植物としてはとても大型で、野外でも見つけやすい仲間です。雄株と雌株がある雌雄異株の植物です。3月頃、受精に成功した雌株は、もやしのような柄をぐんぐん伸ばします(写真1).柄の先端についているのは雌器托と呼ばれる器官の頭の部分で,その裏側には下向きについている小さな胞子体があります.乾燥すると,胞子体をつつむ皮が破れて胞子を飛ばします。一方、雄株がつくる精子は、アイスホッケーのパックのような形をした雄器托でつくられるのですが(写真2)、十分に成熟すると精子を含んだ微少な水滴が霧状に噴出されるのがとてもユニークです。Youtubeなどのネット上の動画でその様子が公開されているのでぜひ見てください。このジャゴケは、地球をぐるっと取り囲むように北半球の温帯地域に分布しています。日本でも北海道から琉球(沖縄本島北部)まで、低地から亜高山帯まで見られます。水の流れがあってやや被陰されたような場所が好きですが、道路沿いの明るい場所にも見かけることがあります。

世界に6種
 1980年代までは、このジャゴケは世界に一種だけがあってそれが広く分布していると考えられてきました。しかしながら、解析の方法が進歩するに従ってDNAに刻み込まれた歴史を解読することができるようになり、その違いに注目すると実は世界に少なくとも6種があることが判明しました。北半球温帯地域に広く分布するタカオジャゴケの他に、欧州だけに分布するオウシュウジャゴケ、北米だけにみられるホクベイジャゴケ、そして東アジアに分布するオオジャゴケとウラベニジャゴケ、そしてマツタケジャゴケです。
 ジャゴケはもともとConocephalum conicumという学名で知られていました。ところが、この学名の基になった植物は欧州だけに分布するオウシュウジャゴケですので,種が異なることが判明した現在では,他の5種についてはこの学名を使うことができません。タカオジャゴケにはすでにC. salebrosumという新しい学名が与えられましたが、その他はまだ記載の準備が整っていません。

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写真1 ジャゴケ(オオジャゴケ)の雌株
 受精に成功すると、3月頃にもやしのように雌器托が伸びる。先端の傘の裏側に小さな胞子体がある。
写真2 ジャゴケ(オオジャゴケ)の雄株
 表面の小さなたくさんの孔の下にそれぞれ一個の造精器が隠れている。

日本列島での分布と分化
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写真3 ジャゴケ探検隊の皆さん(2018年3月 三重県赤目渓谷)
 日本列島には4種が分布します。まず日本列島のどこにそれぞれの種があるのかを調べる必要があります。問題は、これら4種は乾燥した標本では識別が非常に難しいことです。葉状体表面の光沢や植物体の香りの違いといった、生きているときにだけ分かる性質が4種を見分ける上で大切な特徴だからです。たとえばオオジャゴケは、葉状体の表面がつややかで、森林浴で感じるフィトンチッドのような爽やかな香りがします。マツタケジャゴケは、ツンと鼻につく強いマツタケ臭が特徴です。タカオジャゴケとウラベニジャゴケは、葉状体の表面が艶消しになっていて、ほとんど香りがしません。これらの特徴はみな死ぬと失われてしまいますから、博物館や研究所に保管されている乾燥標本だけでは正確な4種の分布を調べることができません。

ジャゴケ探検隊の活躍
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図1 日本産ジャゴケ4種の分布図のパターン
 そこで、全国の苔好きの人々に呼びかけて、住んでいる場所の近くで、あるいは採集で遠くにでかけた際にジャゴケをとってもらい、生きた状態で送ってもらう計画「ジャゴケ探検隊」を立ち上げ(写真3)。前述のようにジャゴケはコケ植物の勉強を始めた初心者でもまちがえることがほとんどないという利点があります。(もっとも、初心者だとゼニゴケとまちがえやすいですが)。送られてきたジャゴケは、一部は形や香りを調べたあと、証拠として乾燥標本あるいはアルコール中で保存する液浸標本として保管します。一部はDNAの配列を調べるために実験室ですりつぶして分析します。
 ジャゴケ探検隊は、これまでに登録してくださった方が北は北海道斜里町から南は鹿児島屋久島まで50人を超え、送られてきたサンプルは400点を超えています。この貴重なサンプルにもとづいて日本産ジャゴケ4種の分布図が作成されつつあります(図1)。また4種それぞれが固有の分布域をもっていることも、徐々に明らかになりつつあります。

これから
 陸上植物には、コケ植物、シダ植物、裸子植物、そして被子植物があり、それぞれが特有の生活の仕方をもって地上に生育しています。コケ植物は風に飛ばされやすい小さな胞子で繁殖し,そして他の植物が生えられない岩の上や樹幹にも着生して生きていけるという特徴を備え,陸上植物の中で独特の生態的位置を占めています.日本列島の植物相がどのように生まれ維持されてきたのかを歴史的観点から考察する上で、たとえ身体は小さくともコケ植物が果たす役割は大きいのです。ジャゴケの分布と分化を明らかにすることで、日本列島と中国大陸との関係を植物の歴史から見直し、そのことを通じて、日本列島の植物相の成り立ちを考えていきたいと考えています。

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第3回「エチオピアの大地に人類進化の謎を探るーコンソ村での調査」(自然とむきあう)

加藤茂弘(兵庫県立人と自然の博物館 主任研究員)


 アフリカ大陸は人類のゆりかごであると,しばしば言われます。これは,200万年前より古い人類化石がアフリカ大陸からしか発見されていないという事実に基づいています。アフリカ大陸からは,200~100万年前の地層からも圧倒的に多数の人類化石が発見されています。アフリカ大陸は,人類の誕生と進化の歴史を研究する上で最適な調査地なのです。
 しかし,広大なアフリカ大陸のどこでも人類化石が発見されるわけではありません。大多数の化石は,アフリカ大陸を2つに引き裂きつつある東アフリカ大地溝帯という帯状のくぼ地と,南アフリカの洞窟遺跡から産出しています。とりわけ,東アフリカ大地溝帯の北半を占めるケニア地溝帯,エチオピア地溝帯,そしてアファー地溝帯からは,約650万年前以降の人類化石が数多く報告されてきました(図1)。エチオピア地溝帯とアファー地溝帯が位置する国がエチオピアであり,私が1994年から25年以上にわたり人類化石の調査に訪れてきた第2の故郷ともいえる国です。

エチオピアという国
 エチオピア(エチオピア連邦民主共和国)は東アフリカ北東部に位置する面積約113万㎢,人口約1億540万人の国で,西アフリカのマリ共和国と並び,アフリカ大陸で最古の独立国の一つです。第二次世界大戦時にイタリアの植民地になりましたが終戦後に独立し,社会主義国への転換,エルトリアの分離・独立などをへて,1991年の政変後に連邦民主共和国となり現在に至っています。

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図1 東アフリカ大地溝帯と主な人類化石産地(左)およびエチオピア地溝帯とアファー地溝帯が位置するエチオピアの国土(右)古人類化石とアシュ―ル型石器の調査地であるコンソ村の位置を示した。

 エチオピアは,マラソンのアベベ選手やロバ選手などを代表に陸上の長距離走が強い国として馴染み深いでしょう。コーヒーの原産地であり,エジプト文明を育んだナイル川の源流の1つ-青ナイルが位置する国でもあります。アフリカ大陸では珍しく地下資源に恵まれず,私が初めて訪れた1994年当時は,主な産業は牧畜・皮革産業,第1の輸出品は皮革製品で,南アジアのバングラデシュと世界最貧国の座を争っていました。
 21世紀になって各種の産業が発展して経済は豊かになりましたが,今でも日用品の物価は日本の10分の1くらいです。現代文明の恩恵に溢れた首都のアジスアベバや地方の大都市を除くと,日本の弥生時代~江戸時代かと思うような農村地域が広がっています。多くの人類化石はこのような農村地域で産出するため,私たちは近郊の小都市に滞在して人類化石の調査を行ってきました。

30thanniv-researchinethiopia-pic11.jpgライフワークの始まり
 東京大学の大学院生であった1992年の夏,助手の池田安隆先生から,この春に東京大学総合研究博物館に赴任された諏訪元 博士が,エチオピアの人類化石調査に参加できる若手の地質・地形研究者を探しているので参加してみないかというお話を頂きました。諏訪さんは,約440万年前のラミダス猿人の化石の発見者として著名な研究者で,1988~1991年に行われたエチオピア人類化石の探索調査に参加し,エチオピア地溝帯南部のコンソ村で直立原人の下顎化石と大量の旧石器を発見されていました。そして,エチオピア人研究者のブルハネ博士(古人類学)やヨナス博士(考古学)とともに,コンソ村での調査をさらに進めようとしていたのです1)。
 東アフリカ大地溝帯の地形・地質に興味を持っていた私はすぐに参加をお願いし,年長の研究者として長岡信治博士を推薦しました。長岡さんとは1994年~1996年にコンソ村での調査を共にし,地質・火山灰層序といった専門分野だけでなく,人間的にも多くのことを学ぶことができました(写真1)。
 私は,大学院時代にはできの悪い院生の代表でした。運よく人と自然の博物館に就職できた時も,なぜあなたが就職できるの?と言われたほどです。それでも,諏訪さんやその先生のホワイトUCLA教授(古人類学),ブルハネ・ヨナスの両博士,長岡さんら,世界の第一線で活躍する研究者らと調査・研究を進める中で,学び,成長し,一人前の研究者として自立できるようになりました。研究者にとっては,研究テーマをしっかりと設定し,尊敬できる研究者と,根気よく研究を続けていくことが大切だと思います。

30thanniv-researchinethiopia-pic2.jpg共存した2種の古人類
 1994年に初めてコンソ村の古人類学調査に参加しました。1994年~1997年の4年間は,野外調査とアジスアベバのエチオピア国立博物館での調査準備や調査後の整理を含めて,各年約2ヵ月をエチオピアですごしました。調査地のコンソ村では,丘陵地に約200~80万年前に堆積したコンソ層という地層が浸食されて露出しています(写真2)。浸食された地層からは,古人類を含む哺乳類の化石やワニ,カメの化石,古人類が製作した石器が取り残されて,地表の窪みに集積しています。それらの化石や石器を産出した地層を特定し,その地層と年代指標となる火山灰層との上下関係を明らかにしていくのが,私たち地質調査班の重要な役割でした。
 KGA10と名付けた調査区では,黒色や暗灰色の粘土層に挟まれた赤茶けた砂礫,砂,泥の互層から,直立原人(Homo erectus)だけでなく,ボイセイ猿人(Australopithecus boisei)に属する別種の古人類の化石が発見されました(写真3)。これらの古人類化石の産出層の直下にはピンク色の細粒火山灰(Lehayte火山灰)が挟まれ,上位には灰色の粗粒火山灰(Karat火山灰)が見つかりました。Lehayte火山灰の直下には,灰色~暗灰色の粗粒火山灰(Trail Bottom火山灰)があることもわかりました。これらの火山灰の最も粗い部分を数㎏採取し,キャンプに持ち帰ってふるい分けし,粒径0.5mm以上の砂粒を取り出します。日本の研究室で,この砂粒からカリウム(K)に富んだアルカリ長石という鉱物を選び出し,それをアメリカのUCLAの研究室に送って,Ar-Ar法を用いて1粒1粒の放射年代を測定しました。30thanniv-researchinethiopia-pic3.jpgその結果,Karat火山灰から141万年前,Trail Bottom火山灰から143万年前の年代が得られ,2つの火山灰に挟まれた地層から化石が産出した直立原人とボイセイ猿人は,約142万年前に共存していたことがわかりました2)。
 古人類化石を産出した赤茶けた地層を周囲に追いかけると,扇状の分布を示すことや,次第に厚さが薄くなり,ついには黒い粘土層中に消えていくことがわかりました。この粘土層は,カバやワニの化石や,湖沼に生息する珪藻の化石を多く含むことから,湖底で堆積した地層だと考えられます。一方,赤茶けた地層は礫や砂が多く,河川が堆積した地層です。したがって,約142万年前には湖に流入する河川が造る扇状地状の平野が広がり,そこに直立原人とボイセイ猿人が暮らしていたと推定されます。ウマの化石が多く産出し,この平野には草原が広がっていたこともわかりました。
 コンソ村でボイセイ猿人が発見されたのは,KGA10の調査区だけです。直立原人の化石は他の調査区でも発見されており,いずれの調査区も相対的に湿潤な環境を示していました。直立原人との生存競争の中で,ボイセイ猿人は,より乾燥して食物資源に乏しいKGA10でしか生き延びられなかったのかもしれません。

30thanniv-researchinethiopia-pic4.jpg石器製作技術の進歩
 コンソ層からは19点の古人類化石しか発見されていません。一方,地表に散在する石器は数百点を超え,大半の調査区から採集されています。古人類化石のように,石器を産出する地層と火山灰層との上下関係や火山灰層の放射年代を明らかにしていくことで,石器の製作技術の変遷を約100万年間にわたり追いかけることができました。これには,1998年~2000年,2002年~2003年,2010年の6度の野外調査を要しました。
 最終的にコンソ層中ではアシュ―ル型石器という石材の両面に加工を施した大型の石器が,約175万年前,160~150万年前,約140万年前,約125万年前,約90~80万年前の5つの時代から産出することを明らかにできました3)。これらの時代の石器を並べて比べてみると,石器の形状が時には緩やかに,時には著しく,変化していることがわかります(写真4)。約175万年前の石器は,アシュ―ル型石器に分類される世界最古の例です。この時代には東アフリカ地域で初期のホモ属(Homo ergaster)が出現しており,アシュ―ル型石器の発明と人類進化との関係性が示唆されます。約125万年前までは,石器に徐々に手のこんだ加工が施されるようになり,見た目も美しい形状をとるようになります。
 約90~80万年前になると,石器の形状は一変します。とくにハンドアックス(手斧石器)は,左右に対称的な楕円形をなし,縦断面は見事な流線形を示しています。石器の縁辺には細かな加工が施してあり,これが美しい楕円を造る要因の1つとなっています。50万年前までには,硬い石で大まかな加工を済ませた後に,骨や木などより柔らかい加工具を利用して周囲の形を整えるソフトハンマー技法が生まれたとされていました。コンソ層の石器もソフトハンマー技法で製作されたもので,これまで知られていたよりずっと古い時代に,この技法が用いられていたことが明らかになりました。約90~80万年前は,東アフリカ地域で脳がより大きく,現代人に近い特徴を持った直立原人が出現する時期にあたります。

エチオピアの野外調査
 エチオピアの野外調査は,命の危険と隣り合わせです。マラリアやチフスのような病気に加えて,体長1.5mに達するコブラやガラガラヘビに注意を払わないといけません。1994年の調査では,現地の井戸水が合わずに水あたりを起こし,ずっとお腹をこわしながら1月半の調査を耐えました。アジスアベバに戻ると,出発前に62㎏あった体重は47㎏に激減していました。1997年の調査では,金泥棒と間違えられて長い槍を持った5~6名の現地人に囲まれ,知らないうちに命の危険にさらされていたこともありました。
 ふりかえると,コンソ村の調査は今ならとても耐えられない日々の連続でした。しかし,古人類の化石や奇跡とも言えるほど大量の石器を目にして,研究者の好奇心は強くかきたてられました。ここにしかない知的好奇心の満足があったからこそ,長期にわたる野外調査を完遂できたと思います。そして,この思いが,30年以上にわたる調査・研究を支える礎になったと感謝しています。

参考文献
1)加藤茂弘(2014)エチオピアのテフラ研究―コンソ遺跡におけるテフラ編年学的研究―.月刊地球 36,256-265.
2)Suwa,G., Berhane, A., Yonas, B. et al.(1997)The first skull of Australopithecus boisei.Nature 389, 489-492.
3)Yonas, B., Katoh, S., WoldeGabriel, G. et al.(2013)The characteristics and chronology of the earliest Acheulean at Konso, Ethiopia.PNAS 110, 1584-1591.

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