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シリーズ「人と自然,地域と向き合う-人博の多様な調査・研究活動の歩み」(第6回~第10回)

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第10回「六甲山系における森林の植生と土壌を調べる」(自然とむきあう)

小舘誓治(兵庫県立大学自然・環境科学研究所 講師)


 「森林土壌」と聞いて,どのようなものを思い浮かべますか?森林内に入っても,地下の土壌を見る機会はないと思います。人と自然の博物館(以下,ひとはく)で植物を観察するセミナーを開催すると,多くの年配者が参加されます。一方,土壌をテーマにセミナーを開催すると,とっつきにくいのか,馴染みがないのか,あるいは興味がないのか,参加希望者が少ないのが現状です。かくいう私も,植物の調査をきっかけに土壌の調査を始めました。
 私の場合は,卒業研究として,地質図をたよりに異なる地質地帯の森林を対象に植生調査を行い,地質と植生の関係について調べたことが始まりです。その後,地質よりも,より直接的に植物に影響を与える土壌へと興味を持ちだしたのは自然の流れでした。それ以来,植生と土壌の調査・研究を続けてきました。

アカマツ林とスダジイ林の土壌はぎとり標本

 ひとはく本館3階展示室の「六甲のアカマツ林」というコーナーに,森林土壌の展示があります(写真1)。それは六甲山系の再度山(標高470m)周辺のアカマツ林とスダジイ林のそれぞれの「土壌はぎとり標本」で,その名のとおり,森林の地面に穴を掘って土壌断面を作り,それをはぎ取ってきた標本です。
 この土壌はぎとり標本(土壌モノリスともいう)は,私が,ひとはくに採用されて始めて関わった展示の1つです。展示制作の専門業者と一緒に,幅約1m×奥行約1m×深さ約1mの穴を掘って土壌断面を作ります。そこに特殊な樹脂を塗ったあと,布を貼り付け樹脂が固まったところで,布ごと土壌断面をはぎ取るのです。比較的近い場所にあるアカマツ林とスダジイ林のそれぞれで,同様の作業を行いました。山の斜面地での作業ですから,今考えると,若かったからできたことだなと思います。

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写真1 ひとはく3階にある「六甲のアカマツ林」の土壌はぎとり標本展示

 展示されている両樹林の土壌はぎとり標本を見比べると,アカマツ林の方が全体的に淡い色で,角ばった大きな礫が上層から下層まで多く不連続にみられ,未熟な土壌に感じられます。一方,スダジイ林の土壌は大きな礫が少なく,全体的に暗い色をしていています。上層の暗くて濃い色から下層にかけて徐々に薄い色に変化していく様子は,じっくり時間をかけて土壌化しているように思われます。どちらも花崗岩類が風化してできた土壌なので,土の粒子が砂っぽい感じです。
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 図1 アカマツ林(左)とスダジイ林(右)の
 植生と土壌のイメージ図
 アカマツ林の場所では,神戸市が永久植生保存地として,1974年から5年ごとに植生と土壌の調査を行っています。私も調査に参加した2014年(第9回目)の結果をもとに,それぞれの植生と土壌のイメージ図を描いてみました(図1)。
 この場所は,1900年ごろまでは植物がほとんど生えていない状態でした。その斜面地に等高線に沿って階段状に石積をして,1902年ごろからアカマツ,クロマツ,ヒノキ,スギなどの苗木が植栽されました。植栽して約110年後の2014年の調査時には,樹高約16mの樹林になっていました。高木層には冬でも緑色の葉をつけている常緑樹のアカマツやソヨゴ,落葉樹のコナラが優占していました。林内には伐採に強い常緑樹のソヨゴやヒサカキが繁茂している一方,常緑樹のスダジイの低木もみられました。ここは標高460mで,気候的極相(その場所で最終的に到達する植物群落)としてスダジイやアカガシなど常緑広葉樹(照葉樹)を主体とする照葉樹林が発達する場所です。
 スダジイ林の土壌のはぎ取り場所は,大竜寺の周辺にある,いわゆる社寺林です。250年以上は経っていると思われ,高木層のスダジイやアカガシは樹高18m以上で幹直径が80cm以上の大径木がみられます。林内には常緑樹のモチノキ,ヤブツバキ,ネズミモチなどが生育しています。
 一般に森林土壌は,落ち葉などがたまった有機物層(Ao層)と,岩石が風化して細かくなった鉱質土層に大きく分けられます。鉱質土層では,有機物が分解され黒っぽい色になった腐植(ふしょく)を多く含む層をA層といい,土壌の母材(ぼざい)となる岩石が風化した層をC層と呼んでいます。A層とC層の中間的な特徴を持つ層をB層といいます(図1下の土壌のイメージ図を参照)。
 樹木にとって有益なA層とB層を合わせた土層の厚さを比べると,再度山のアカマツ林で約40cm,スダジイ林で約70cmとなり,スダジイ林の方が厚いことが分かります。それぞれの樹林から土壌試料を採取して最大毛管容水量(毛管現象で最大に保持できる水分量)やpHを測定してみました。地表から30cmの深さまでの土壌で比較すると,最大毛管容水量はアカマツ林で36.5%,スダジイ林で57.8%となります。この数値が小さい方が乾燥しやすいので,アカマツ林の方が乾燥しやすい環境といえます。pHを比較するとアカマツ林が4.5に対してスダジイ林が5.0となり,アカマツ林がより酸性化していることが分かりました。アカマツ林の中にスダジイの低木が生育していることから,このアカマツ林は将来,スダジイ林へ移り変わると考えられます。植生もそうですが,土壌が変化するのも,相当な時間がかかると思われます。

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  写真2 皆伐した翌年の2005年9月の現場      写真3 皆伐6年後の2010年9月の現場

アカマツの再生と土壌環境

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図2 10m×10mの方形区のイメージと選定された
小方形区 名称が書かれているものが土壌を調査
した小方形区。凡例下の( )内の数字は,
小方形区数を示す。



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図3 4年生以上のアカマツにおける地際直径
と樹高の関係

 アカマツ林は,関西の里山の代表的な植生の1つです。何も植物が生えていない裸地からどのように植生が再生していくのかを,再度山に隣接する再度公園の周辺で調査する機会がありました。調査地はもともとアカマツやコナラなどの高木が優占している樹林でした。その一定面積(約20m×20mの範囲)を伐採して,地表部にある落葉落枝(有機物層)およびA層を含む表層土壌(深さ0~5cm)と植物の株や根の部分を除去した状態を人工的に作ったところです。標高は398mで気候的極相は照葉樹林です。
 ここは花崗岩類が風化してできた土壌で,砂礫が多くて色が白っぽい感じです(写真2)。水はけは良いのですが,逆に言えば水持ちが悪いという特徴になります。皆伐後に,その範囲の中心部に10m×10mの方形区が設置されました。さらに縦方向と横方向に1mごとに杭を打ってロープを張り,小方形区が作られています。植物がない状態から6年経つと,周りから種子が供給されるなどして様々な植物が生えてきます(写真3)。小方形区ごとに6年経過した状態の優占種(被度%が高い植物)を調べ,アカマツの成長(地際直径や樹高),出現植物の高さ・被度%,出現種類数などを調べました。優占種としては,アカマツ,ヌルデ,ニガイチゴと,草本種(メリケンカルカヤあるいはススキなど)があげられます。それらの各優占種に着目して,深さ0~5cmの土壌の最大毛管容水量,礫量などの測定も行いました。
 皆伐から6年後の調査時には,個体数の差は大きいですが,アカマツの実生や幼木が各優占区においてみられました。アカマツは,節(枝分かれしている位置)の数を数えると樹齢を推定できます。特にアカマツ優占区とヌルデ優占区に着目して,4年生以上のアカマツの幼木について地際直径と樹高の関係を調べました(図3)。同じ地際直径で比較すると,ヌルデ優占区のアカマツの方が,アカマツ優占区のアカマツよりも樹高が高いことがわかります。深さ0~5cmの土壌の径2mm以上の礫の重さの割合と最大毛管容水量との関係も調べました(図4)。その結果,礫の割合が減って細かい土粒子の割合が増えると最大毛管容水量が増えるという関係にあることがわかりました。深さ0~5cmの土壌の最大毛管容水量と出現種数との関係をみると,最大毛管容水量の増加に伴い,出現種数も増加する傾向がみられました(図4)。すなわち,アカマツ優占区の表層土壌は乾燥しやすく,出現する植物の種類も少なく,アカマツの伸長成長も良くありませんでした。
 一方,ヌルデ優占区の表層土壌は,最大毛管容水量が高くて比較的乾燥しにくい環境であり,他の植物も多く生育していることがわかりました。ヌルデ優占区のアカマツの伸長成長は良いのですが,ヌルデがアカマツよりも樹高が高いため,調査時点ではアカマツに対する上方からの光はヌルデによって制限されている状態でした。しかし,上方を他の樹種に覆われていないアカマツ優占区のアカマツは,その後も順調に生育するものと思われます。このように狭い範囲でも,土壌条件の違いで植生の再生の様子も違ってくるようです。

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図4 深さ0~5cmの土壌の,礫の割合と最大毛管容水量の関係(左)
および最大毛管容水量と出現種数の関係(右)

砂防堰堤上流側にみられる森林植生と土壌環境

 六甲山系は,大部分が花崗岩類から形成されているため地形が急峻で,斜面崩壊や土砂(石)流の発生が多い地域として知られています。このような地域では,それらを防ぐための砂防ダムや治山ダム(ここではそれらを総称して「堰堤」と呼びます)が,同じ流路内にたくさん設置されています。これらのうち,堰堤上流側が砂礫によって満杯となったまま比較的安定している部分に森林植生がみられるところがあります。六甲山系の鉢巻山(標高898m)近くの渓流部で,そのような森林の土壌を調べる機会がありました。ちなみに,そこの標高は800m前後であり,気候的極相として夏緑林が発達する場所です。
 堰堤の上流側の砂礫堆積地を便宜的に「堰堤部」,その近くに位置する斜面崩壊地を「斜面部」と呼んで区別し,同じ流路で連続した複数の堰堤でそれぞれの調査を行いました。比較のために,周辺部斜面の森林(夏緑二次林)も調べました(図5)。
 堰堤の施工年代から推定すると,いずれも20年以下の比較的若い森林植生です。堰堤部と斜面部の森林植生の高さは,それぞれ,6m~9mと8m~10mです。一方,周辺部の夏緑二次林は高さが15mで,落葉樹のリョウブやコナラが優占していました。堰堤部と斜面部で共通して出現する樹種は,落葉樹のタニウツギ,ヤマヤナギ,オオバ゙ヤシャブシ,ウリハダカエデ,クマシデ,ウツギ,コゴメウツギ,コアカソなどです。そのうち,斜面部ではオオバヤシャブシ,堰堤部ではヤマヤナギが,それぞれ優占している地点が多くみられました。しかし,周辺部の夏緑二次林と共通する樹種は,斜面部でリョウブ,コナラ,ヤマツツジがわずかに生育するだけで,堰堤部には共通する出現樹種はほとんどありませんでした。

rokkomt-fig5-600x.png図5  調査した堰堤部と斜面部の位置のイメージと植生と土壌のようす

 深さ0~10cmの土壌は,100mlの円筒土壌試料の乾燥重量(容積重)が夏緑二次林で100g以下だったのに対して,斜面部で116~143g,堰堤部で124~150gといずれも値が高く,ち密で空気や水が入る隙間が少ないことがわかりました。また,斜面部では地表面や土壌中に大きな礫がたくさんみられました(図5)。このような土壌環境では植物根の発達も容易ではないため,周辺部の夏緑二次林の構成樹種が斜面部や堰堤部へ侵入するのは難しいのかも知れません。
 今後も,様々な地上部の植生を調査するとともに,地下部の土壌も地味に調査したいと考えています。

参考文献

1)中西 哲・高橋竹彦(1975)再度山永久植生保存地調査報告書(第1回),神戸市土木局公園緑地部,1-39.
2)服部 保(1988)気候条件による日本の植生.「日本の植生 侵略と攪乱の生態学」(矢野悟道編),東海大学出版会,2-11.
3)武田義明(1993)六甲山系の植物群落.「六甲山の植物」,神戸新聞総合出版センター,158-167.
4)武田義明・飯島尚子・猿田けい・小舘誓治(2010)再度山永久植生保存地における植物群落の遷移に関する研究VIII.「再度山永久植生保存地調査報告書(第8回)」,神戸市建設局公園砂防部,3-79.
5)小舘誓治(2009)六甲山系における砂防堰堤上流側に発達した森林植生とその土壌環境.日本造園学会誌(ランドスケープ研究),72,905-908.
6)小舘誓治・橋本佳延・武田義明(2015)再度山永久植生保存地における植生遷移と土壌理化学性との関係(第9回).「再度山永久植生保存地調査報告書(第9回)」,神戸市建設局公園部,103-138.
7)小舘誓治・武田義明(2016)アカマツ林小面積皆伐初期におけるアカマツの定着・成長と土壌環境.人と自然,27,33-41.

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第9回「兵庫県のヤマラッキョウの地域的変異」(地域とむきあう)

藤井俊夫(兵庫県立人と自然の博物館 主任研究員)


 兵庫県には,野生のヤマラッキョウの仲間が4種自生しています(藤田ほか,2007)。人里近くの河川堤防や田畑の畔に生育し,初夏に白色の花をつけるノビル(花の代わりに多数のむかご(珠芽)をつけていることがあります),兵庫県では北部の冷涼な地域に分布し,初夏に薄紫の花を咲かせるアサツツキ,分布域は広いが植物体が小さく,春先に小さな目立たない花を咲かせるヒメニラ,そして最も広く分布し,秋に赤紫色の花を咲かせるヤマラッキョウの4種です。

 ここでは,兵庫県で最もふつうに見られるヤマラッキョウの地域変異や集団間の変異についてみていきます。ヤマラッキョウの生育地として「山野の日当たりの良い草原に生える」との記述が見られますが(佐竹義輔,1991),実際にはヤマラッキョウは海岸の岩場から田畑の畔,溝などの湿地に至る多様な環境に生育しています。

 ヤマラッキョウの仲間について調べる契機になったのは2014年秋の植物観察会で,その折りに姫路の海岸の岩場に生える個体群を見つけたところから始まりました。その2年ほど前には,ヤマラッキョウ近似のタマムラサキが太平洋側の海岸で次々に見つかっていました(田中ほか,2012)。それまではタマムラサキは原記載の基準標本産地である対馬でしか知られていませんでした(Makino,1910)。しかも,田中ほか(2012)によるとタマムラサキの生育地は海岸の岩場に限られるとあり,姫路で見られた海岸性のヤマラッキョウの生育環境と一致しました。

 この時に疑問に思ったのが,兵庫県の内陸に生育するさまざまなタイプのヤマラッキョウについてでした。文献を調べると,ヤマラッキョウには複数の倍数性が知られており,2倍体,4倍体,6倍体などを含む複合種であることがわかってきました(野田・渡辺,1968)。そして,4倍体(複2倍体)の系統がタマムラサキとして,ヤマラッキョウから分離・独立されていました。そこで姫路のヤマラッキョウは海岸に生育するタマムラサキに間違いないだろうとして,兵庫県新産の植物として報告しました(藤井,2018)。この報告と同時に,内陸の草原に生える高さが160cmを超えるヤマラッキョウについて,未解明のヤマラッキョウの一系統「巨大ヤマラッキョウ」として報告しました。

 その後は,ヤマラッキョウに関する各種の文献を収集するとともに,兵庫県内のヤマラッキョウ集団の現地調査と標本の収集を続けてきました。姫路のタマムラサキの集団を引き続き調査し,その栽培個体の形態観察を詳細に行ってきたところ,タマムラサキの記載に合わない特徴が明らかになってきました。九州におけるヤマラッキョウの分類に関する文献(堀田,1998)を見つけて姫路のタマムラサキの形質と比較したところ,葉の断面構造などの点で一致する点が多数認められましたが,個体サイズや葉長と花茎長の比率など細部の形質で異なるところが出てきました。

 そこで再び,収集した各種の図鑑類や報告などの記述と兵庫県に産するヤマラッキョウの形態,形質の比較作業を行ったところ,図鑑や報告によってヤマラッキョウの記述がバラバラであることがわかってきました。例えば,ヤマラッキョウと,タマムラサキや近似のイトラッキョウなどを識別する形質で葉の断面構造があります。ヤマラッキョウでは,円形中空から三角中実まで,さまざまな記述が見られます(Jiemei & Kamelin,2000;布施,2015など)。

 兵庫県内で観察したさまざまな系統のヤマラッキョウ集団を葉の断面構造に注目して区分していくと,生育環境に対応した複数の集団に区別できることが明らかとなってきました(藤井,2020a-c)。すなわち,兵庫県のヤマラッキョウを葉の断面構造から区分すると,以下の5つのタイプに区分できます(藤井,2020d)。

 a.溜池の土手などに生える高さ1.5mを超える系統
   葉の断面が三角形で中実,中空の2タイプ。幅3~5mm。藤井(2018)で巨大ヤマラッキョウとしたもの。

 b.湿った岩場に生える矮小化した系統(写真1)
   葉の断面が扁平で中実,幅1~2mm。

 c.海岸の岩場に生え,葉が花茎より長く枝垂れる系統(写真2)
   葉の断面がV字型中実だが,葉が長く枝垂れる。幅3~5mm。

 d.田んぼの土手等に生える小型系統
   葉の断面が中実,V字型で,葉が直立する。幅2~3mm。

 e.湿地に生える系統
   葉の断面が矢羽型,針で開けたような小さな穴があり中空。幅2-4mm。

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写真1 湿った岩場に生育する矮性タイプ
(背丈20cm)
写真2 海岸性のニセナンゴクヤマラッキョウ
(背丈50cm)

 ここで再び姫路の海岸で発見したタマムラサキを検討したところ,上記の「c」の系統になり,タマムラサキではなく,各種図鑑の記載とも一致しない系統であることが明らかになりました。今のところ該当する分類群がなく,堀田(1998)の報告にあるナンゴクヤマラッキョウに最も近い形態を示すので,仮に「ニセナンゴクヤマラッキョウ」と呼んでいます(写真2)。今後は,倍数性や染色体の核型分析,DNA解析による種としての独立性を検討していこうと考えています。

 ヤマラッキョウなどの身近な植物でも詳細に観察していけば,地域や生育環境によって種分化を起こしてきていることがわかる可能性があります。日本に生育する植物相の全容は各種の図鑑によって明らかになりましたが,ヤマラッキョウのように身近な植物でさえ,種内変異や地域間変異,集団間変異が十分にわかっていない植物が多数残されています。

参考文献
藤井俊夫(2018)兵庫県新産のタマムラサキ(ユリ科).兵庫の植物,28:5-6.
藤井俊夫(2020a)兵庫県のヤマラッキョウ群について.第19回日本植物分類学会大会講演要旨集,42.
藤井俊夫(2020b)草原に生育する巨大ヤマラッキョウについて.第67回日本生態学会大会講演要旨.http://www.esj.ne.jp/meeting/abst/67/P2-PB-190.html
藤井俊夫(2020c)兵庫県産のヤマラッキョウ類について(おぼえがき).兵庫植物同好会々報,36:24-26.
藤井俊夫(2020d)ヤマラッキョウの認識について.兵庫の植物,30:51-52.
藤田 昇・布施静香・黒崎史平・高橋 弘・田村 実・山下 純(2007)Liliaceae ユリ科.福岡誠行・黒崎史平・高橋 晃編「兵庫県産維管束植物9」,人と自然,18:85-117.
布施静香(2015)【ネギ属】Allium L.大橋広好・門田祐一・木原 浩・邑田 仁・米倉浩司編著「改訂新版 日本の野生植物1」,平凡社,240-243.
堀田 満(1998)西南日本の植物雑記IV.九州南部から南西諸島のヤマラッキョウ群の分類.植物分類・地理,49(1):57-66.
Jiemei, X. and Kamelin, R. V.(2000)Allium.Flora of China,24:165-202.http://www.efloras.org/: Online Date 2/22/2015
Makino, T.(1910)Observations on the flora of Japan.The Botanical Magazine,24:276-287.
野田昭三・渡辺 晧(1968)ヤマラッキョウの染色体構成とB染色体の多様性(予報).大阪学院大学論叢,11:105-128.
佐竹義輔(1991)【19】ネギ属 Allium L.佐竹義輔・北村四郎・亘理俊次・富成忠夫編「日本の野生植物.草本I単子葉」,平凡社,35-37.
田中伸幸・藤井伸二・木下寛(2012)タマムラサキの分布と四国での生育環境.分類,12(2):153-157.

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第8回「琉球・台湾にキノボリトカゲの仲間は何種いるのか?」(自然とむきあう)

太田英利(兵庫県立大学自然・環境科学研究所 教授)


 私は学生の頃より,キノボリトカゲというトカゲの仲間に漠然とした興味を持ちました。キノボリトカゲ属は,かつてテレビで人気の出たエリマキトカゲなどと同じアガマ科に属します。アガマ科は,森林棲や海岸棲の大型種を含むイグアナの仲間(イグアナ科)や,体の色を顕著に変化させることで有名なカメレオンの仲間(カメレオン科)と近縁で,これらとともにイグアナ下目というグループを構成しています。イグアナ下目のトカゲ類はみな,(1)昼行性で視覚が発達し環境を立体的に認識する,(2)対照的に嗅覚はほとんど機能せず匂いがわからない,(3)雄が縄張りをつくり,その中から威嚇や闘争によって他の雄を排除する,といった特徴を示します。日本や台湾などの東アジア島嶼域に生息しているイグアナ下目は,キノボリトカゲ属だけであり,この地域のトカゲ類の中では異彩を放つ存在となっています。

 このようなキノボリトカゲ属の生物学的特性に興味をそそられた私は,分布域である琉球列島や台湾の各地に通い,生息状況や生態を観察するとともに標本を採集し,その形態や核型(染色体の数や形などにおける特徴),さらに酵素支配遺伝子の組成やミトコンドリアDNAの配列変異について,詳細に比較検討を進めてきています。東アジアの島々に,いったいどれだけの種や亜種が生息しているのかを明らかにすることが,研究の目的です。

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写真1 琉球列島の最西端に位置する与那国島のヨナグニキノボリトカゲ
この30km2弱の小島にしかおらず,生息密度も決して高くないため,
環境省のレッドリストに絶滅危惧種Ⅱ類(VU)として掲載されています。

 研究を開始した時点では,琉球列島にはキノボリトカゲ一種の二亜種(オキナワキノボリトカゲとサキシマキノボリトカゲ)が,台湾にはスウィンホーキノボリトカゲ一種の三亜種(スウィンホーキノボリトカゲ[基亜種],タイワンキノボリトカゲ,ミツクリキノボリトカゲ)が分布するとされていました。
 ところが実際に詳しく調べてみると,琉球列島ではさらに,その最西端の与那国島だけに生息するキノボリトカゲの亜種を発見でき,新亜種ヨナグニキノボリトカゲとして記載しました(写真1)。
 実は高校2年の時に一度,沖縄旅行に行って与那国島を訪れ,その際に観察したキノボリトカゲの一種が少なくとも外見上,同じ八重山諸島の石垣島や西表島の既知亜種であるサキシマキノボリトカゲとは明確に異なっていたのが強烈に印象に残っていました。それが30年後に改めて明らかとなったわけです。さらにDNAを指標とした解析からはこの亜種が,祖先集団の与那国島における長期間の隔離を経て生じたものであることも強く示唆されました。

 台湾での調査からは,まず,低地の全域や離島にも広く見られる既知種スウィンホーキノボリトカゲが実際には亜種に分かれず,地理的に連続的に変異することがわかりました。いっぽう台湾北部の低地では,それまで琉球列島の固有種と考えられていたキノボリトカゲの別亜種(キグチキノボリトカゲ)を新たに見つけ,記載しました。それまでこの地域にはスウィンホーキノボリトカゲしかいないと考えられていたのですが,野外調査で体の大きさや胴と脚の長さの比率,体色などが明確に異なる二つのタイプのキノボリトカゲ類が同じ場所にいるのに気づきました。野外での直接観察が,キグチキノボリトカゲ発見のきっかけとなったわけです。

 台湾中部や南部の山地では,三つの独立種(タンソクキノボリトカゲ,マキキノボリトカゲ,タイヘイキノボリトカゲ)を新たに発見ないし再発見しました。このうちで"再"発見と記したタンソクキノボリトカゲは,戦前に一度独立種として記載されたことがあるものの,その後の不適切な検討を経て,スウィンホーキノボリトカゲの同物異名と結論づけられてしまっていたからです。実際に台湾中部の山地で生きた個体を採集して調べてみると,体色も行動もスウィンホーキノボリトカゲとは全く異なっており,そのため再度,これを独立種タンソクキノボリトカゲとして再記載したわけです。

 台湾の山地に,平地のものとは異なる鮮やかな緑色のキノボリトカゲがいるという記述は,実は戦前に,台湾の博物学に取り組んだ何名かの日本人研究者が記していました。しかしそれ以降,この問題を掘り下げる研究者はいませんでした。ちなみにスウィンホーキノボリトカゲとキグチキノボリトカゲの体色は全体的に褐色で,緑味はほとんどありません。タンソクキノボリトカゲは,確かに部分的に緑色をしていますが,"鮮やかな"というほどではありません。
 このような"謎"が残る中,私はたまたま調べさせていただいた大阪市立自然史博物館の動物液浸標本庫の中で,「1923年に台湾南部の山地で牧茂市郎氏によって採集された」と記されたラベルの付いた奇妙なキノボリトカゲ属の標本を見つけました。長く液浸状態であったためかなり色が抜け落ちていたものの,全体的に青みの勝った現在の色から,生時には鮮やかな緑色であったことは明らかでした。標本ラベルにあった産地情報をもとに訪れた台湾南部の山地で,幸運にも明らかに同種と思われる生体を発見して採集することができました。詳しく調べてみると,予想した通り,その時点での既知種のどれとも形態や核型が異なり明らかに未記載であるとわかったため,採集者に献名してマキキノボリトカゲ(学名の種小名makii)と命名しました。
 牧氏は,大阪市立自然史博物館の収蔵標本の採集から10年後となる1933年に,台湾を含む当時の日本領全域のヘビ類を扱った分類のモノグラフを著したことで著名な人物ですが,幅広い見識と几帳面さを兼ね備えられていたのでしょう。必ずしもご自身の専門の中心ではないトカゲであっても(おそらく何かおかしいと感じて)採集し,きちんとした採集情報とともに標本として残されていたことが,70年あまりの時を経て,今回の発見につながったわけです。

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写真2 非常に美しいタイヘイキノボリトカゲ
 台湾北東部の太平山とその周辺の限られた範囲でしか見られず,確認個体数も少ないため,新種として記載されてからほどなく,台湾政府によって保護種に指定されました。

 タイヘイキノボリトカゲの発見は唐突でした。調査の途中でたまたま訪れた国立台湾師範大学で動物の生態や保全を研究している大学院生らと話している際,その中の二名から,「それまで知られていたどの種とも明らかに異なるキノボリトカゲの仲間がいる場所がある」との情報提供を受けたのです。正直半信半疑だったのですが,院生らが案内してくれた台湾東北部の山,太平山で見つけたのは,確かにそれまでに発見・記載されたどの種とも異なるたいへん美しいトカゲで(写真2),紛れもない未記載種でした。
 タイヘイキノボリトカゲの生息地は太平山周辺に極限されており,その院生たちの情報提供がなかったら,決して発見されなかったでしょう。このため,彼らにも記載内容に踏み込んだ議論に参加してもらい,論文は連名で発表しました。種小名は"luei"としたのですが,これは両院生の所属する研究室の主任教授である呂光洋博士(Dr. Kuang-Yang Lue)に献名したものです。

 これら台湾の山地の三種,そしてキグチキノボリトカゲは,相互に染色体の数や形が異なっており,おそらく染色体の変異が契機となって別種へと分かれていったと考えられています(図1)。染色体の変異は往々にして,異なる核型を持つ雌雄間の交雑個体における配偶子形成の阻害を引き起こすため,集団間の生殖隔離へとつながり易いからです。なお台湾には,未だに種の帰属が明らかでないキノボリトカゲ属が複数残されており,それらの分類学的な位置づけや,既知種との系統関係の解明を目指して,現在も調査・研究を進めています。

 上記のように新たに記載された種や亜種のほとんどは,発見された時点ですでに存続の危ぶまれる状況にありました。そのため今では,日本や台湾の政府によって絶滅危惧種や保護種に指定され,その保存がはかられています。このことは,行政や自治体,NPOなどによる生物多様性保全の推進に当たり,分類学的研究が極めて重要な役割を果たすことを示す,よい例ともいえるでしょう。
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図1 キグチキノボリトカゲ(A),タンソクキノボリトカゲ(B),タイヘイキノボリトカゲ(C),マキキノボリトカゲ(D)の核型
 染色体の数や形状組成が種ごとに大きく異なっています。

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第7回「ナウマンゾウの祖先をエチオピアで掘る」(標本とむきあう)

三枝春生(兵庫県立大学自然・環境科学研究所 准教授)


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図1 東京都中央区日本橋浜町産ナウマンゾウの復元骨格
 約36万年前から約2万3千年前にかけて、ナウマンゾウ(図1)という絶滅種が、南は九州から北は北海道まで、日本中にいたことが知られています。保存の良いナウマンゾウの骨格化石は、静岡県、長野県、神奈川県、千葉県、北海道、そして東京都中央区日本橋浜町の地下鉄工事現場から発見されています。浜町の化石が発掘されたとき、私はボランティアとして化石の修復作業に参加し、ナウマンゾウ頭骨の修復作業に熱中しすぎて受験勉強に身が入らず、浪人してしまいました。このようにナウマンゾウとの出会いは古いのですが、大学院でゾウの化石を研究することになったときには、浜町の化石の修復作業を一緒にした高橋啓一博士(現滋賀県立琵琶湖博物館館長)らがナウマンゾウを詳しく研究していたので、私はもっと古い時代のナウマンゾウ以外の長鼻類(ゾウの仲間)の化石を研究することにしました。しかし、浜町の化石以来、頭の片隅に残っていた疑問がありました。それは、ナウマンゾウが大陸から日本に渡ってきたときにどのような顔をしていたのかという疑問です。

 ナウマンゾウやそれに近縁なユーラシアのゾウはパレオロクソドン(Palaeoloxodon)属(または亜属)に分類されています。パレオロクソドン属はロクソドンタ(Loxodonta)属(アフリカゾウの仲間)、エレファス(Elephas)属(アジアゾウの仲間)、マムーサス(Mammuthus)属(マンモスゾウの仲間)とともにゾウ科に分類され、ユーラシアのパレオロクソドン属の頭骨には、切歯骨という牙のつけ根となっている骨が先端に向けて強く左右に広がり、おでこに前頭頭頂隆起と呼ばれる横長の隆起があるという特徴があります。ナウマンゾウの頭骨は、千葉県成田市猿山から雄のものが(図2E)、浜町からは雌のもの(図1)が発見されており,それらにも上記の二つの特徴が見られます。インドから発見されているパレオロクソドンの一種ナルバダゾウ(Palaeoloxodon namadicus)にも同じ特徴がありますが、前頭頭頂隆起は骨鼻口という気道につながる孔の上にオーバーハングするほど強烈です(図2D)。こうした違いがあることから、猿山産のナウマンゾウの頭骨を研究した犬塚則久博士は、大陸からわたってきたナウマンゾウの祖先の前頭頭頂隆起はそれほど強くなかったと推測しました。ところが、中国河北省泥河湾から一つだけ発見されているパレオロクソドンの頭骨化石(図2C)の前頭頭頂隆起は、ナルバダゾウ並みに強烈に発達しています。日本と中国で見つかっている頭骨になぜこのような差異があるのかについて当時は何の手がかりもなく、高橋さんとの議論の結果は「和風と中華風の違い」という、しょうもないものでした。

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図2 パレオロクソドン属の頭骨の進化(Saegusa and Gilbert, 2008).
A,イタリア,La Polledrara di Cecanibbio産頭骨化石; B,ドイツ,シュトゥットガルト近郊Bad Cannstatt産頭骨化石;C, 中国,河北省泥河湾産頭骨化石;D,インド,マハーラーシュトラ,ナーシク産ナルバダゾウの頭骨化石;E,千葉県成田市猿山産ナウマンゾウの頭骨化石;F,エチオピア,ミドルアワッシュ,ブリ産レッキゾウの頭骨化石;G,エチオピア,オモ産レッキゾウの頭骨化石;H,ゾウの頭骨と軟体部の関係.Cは衛 (1976) の図版I, DはKritzolina/CC BY-SA(https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0),HはSaegusa and Gilbert(2008)の図9.8をそれぞれ改変.

 その23年後に、エチオピアで出会った化石をきっかけにナウマンゾウの祖先の謎をもう一度考える機会を得ました。1999年に、エチオピアで人類化石を研究している諏訪元博士(現東京大学総合研究博物館館長)の紹介で、エチオピアのミドルアワッシュで人類化石を探している調査隊に参加しました。ミドルアワッシュからは580万年前から16万年前のさまざまな時代の人類化石が発見されていますが、私の目的はこれら人類化石と一緒に見つかるゾウの化石です。100万年前の人類化石が発見されたブリという村に行ったとき、調査隊のアメリカ側リーダーのホワイト博士がゾウの頭骨化石があるぞと教えてくれました。地層から半分露出しているその化石を見た瞬間、かつて受験勉強の邪魔をしてくれたナウマンゾウの祖先にピッタリのものが目の前にあることに気づきました。ブリのゾウ化石は東アフリカで人類化石と一緒に発見されることの多いレッキゾウ(Palaeoloxodon recki)です。レッキゾウはユーラシアのパレオロクソドンの祖先とされてきましたが、エチオピアやケニアから発見されている約200万年前のレッキゾウの切歯骨は、ユーラシアのパレオロクソドンのように先端に向かって左右に広がっていません。ところが、ブリの100万年前のレッキゾウの切歯骨は先端に向って広がっており、ユーラシアのパレオロクソドンの特徴の一つが明瞭に現れていました。ユーラシア最古のパレオロクソドンの化石は約80万年前のものなので、ブリの頭骨化石は、その祖先がアフリカからユーラシアに移住する出アフリカ直前の状態を示すものだったのです。

 私はこの頭骨化石を掘り出したいとホワイト博士に言いましたが、彼の最初の返答は写真だけ撮影して済ますというものでした。限られた経費と時間の中で成果を出さなければならない調査隊には、他の化石なら何十個も積める運搬車を一個で占めてしまう大きなゾウの頭骨化石を持ち帰るなど論外というわけです。しかし、ナウマンゾウの古い知己である私が引き下がるわけには行きません。この頭骨は出アフリカ直前の状態を示すアフリカ唯一の化石であることを力説したところ、ホワイト博士は掘っても良いと言ってくれました。当時院生であったギルバート博士と二人だけで、翌日の午前中に2時間以内で掘り出すという条件付でした。翌日、二人で奮闘して倍の4時間で掘り出しましたが、これはゾウの頭骨化石発掘にかかった時間の最短記録だと思います(図3)。その3年後にブリの他の場所で、もっと巨大なレッキゾウの頭骨を10日間かけて掘り出しました(図4)。ホワイト博士はブリの住民であるアファー族の若者3人を発掘補助につけてくれましたが、まずいことにラマダンの最中でした。アファー族は敬虔なイスラム教徒なので、水筒を持ってきていても、ラマダン期間の日中は口の周りを湿らすだけでどんなに暑くとも絶対に水を飲みません。酷暑の中で水も飲まずに労働するのは不可能なので、若者3人が働いてくれるのはせいぜい午前11時頃までです。それ以降は、岩陰で寝ている彼らを横目に夕方まで私一人で発掘するはめになりました。

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図3 エチオピア,ミドルアワッシュ,ブリでの1個目のレッキゾウ頭骨の発掘.中央のギルバート博士の前に見えるのがレッキゾウの頭骨化石.   図4 エチオピア,ミドルアワッシュ,ブリでの2個目のレッキゾウ頭骨の発掘.

 2001年にイタリアのローマで開催されたゾウ化石に関するシンポジウムで、ナウマンゾウの起源に関する別の手がかりに遭遇しました。ローマ近郊の遺跡La Polledrara di Cecanibbioの見学会があり、そこでは旧石器と共に発掘され大部分が現地保存されたおびただしい数の獣骨化石の中に、保存の良いパレオロクソドンの頭骨化石が二つありました(図2A)。ヨーロッパで発見されるパレオロクソドンはアンティクースゾウ(Palaeoloxodon antiquus)と呼ばれており、インドで発掘されたナルバダゾウとは別種とされています。しかし、目の前にある頭骨はインドのナルバダゾウや、中国産の頭骨に酷似していたのです。これには驚かされました。La Polledraraは海洋酸素同位体ステージのMIS9 (約30~34万年前)に対比されます。ドイツ、シュトゥットガルト近郊Bad CannstattのMIS11(約37~42万年前)に対比される地層から発掘されたパレオロクソドンの前頭頭頂隆起はそれほど強くなく、ナウマンゾウ程度です(図2B)。Bad Cannstatt産の頭骨の形をシュトゥットガルトタイプ、前頭頭頂隆起が極度に発達したLa Polledrara、インドのナルバダゾウ、中国産の頭骨の形をナルバダタイプと呼ぶと、両タイプが種の違いである可能性と同一種内の年齢や性差である可能性の二通りが考えられます。しかし、ドイツとイタリアの両産地の頭骨はほぼ同じ大きさであることから、両タイプの違いは年齢や性差によるのではなく、種の違いではないかと考えました。さらにエチオピアのブリで発掘していたレッキゾウの頭骨の形態とナウマンゾウが日本に渡来したと推定される時期を考え合わせて、以下の仮説をたてました。

 アフリカ起源のパレオロクソドンは約200万年前までにこの属の特徴の一つである箱型の頭頂部を進化させ(図2G)、約100万年前までに先端が左右に広がった切歯骨が進化します(図2F)。100万年前後にパレオロクソドンは出アフリカを果たし、レバントまで分布を広げます。この時期に、ユーラシアの中緯度地域には約350万年前に出アフリカを果たしていたマンモスの仲間が分布していました。その後、彼らはより高緯度の寒冷な気候帯に分布するようになり、置き換わるようにパレオロクソドンはユーラシアの中緯度地域へ分布を広げます。約100万年前以降、氷期と間氷期の気候の差が強まり、氷期にはマンモスがスペインやイタリアまで南下し、間氷期にはパレオロクソドンがポーランドからロシア南部まで北上することが繰り返されるようになります。約80万年前からMIS11までの期間にシュトゥットガルトタイプの頭骨(図2B)を持つパレオロクソドンが進化し分布を広げた後、MIS9までにナルバダタイプのパレオロクソドンが進化し、シュトゥットガルトタイプと置き換わっていきます。イタリアのLa Polledrara(図2A)、インド(図2D)、中国(図2C)で見つかっているものは、こうしたナルバダタイプです。一方、東アジアまで分布を広げたシュトゥットガルトタイプの頭骨を持ったパレオロクソドンは、MIS12(約42~48万年前)に対馬海峡が海面低下に伴い陸化した際に日本に渡来し、ナウマンゾウの祖先となります。その後は日本列島が大陸から孤立し続けてナルバダタイプが日本へ侵入できず、シュトゥットガルトタイプの頭骨という古い特徴がナウマンゾウに引き継がれました(図2E)。

 この仮説を2008年に論文として公表しましたが、2006年に兵庫県丹波市の篠山層群(約1億1千万年前)から恐竜の化石が見つかったため、ゾウの研究からはしばらく離れていました。2017年に台湾で開催された国際マンモス学会では、旧知の間柄のイタリア人研究者が、口頭発表で2008年の論文を絶賛してくれました。しかし、彼はその後スペイン、イタリア、英国の研究者と共同で再検討を進め、2020年に私の仮説を否定する論文を公表しました。ナルバダタイプの頭骨形態は第三大臼歯が生える老齢個体の特徴であるのに対して、シュトゥットガルトタイプのそれはそれよりも若い個体の特徴であるというのです。ゾウは一生に計24個の歯が生え変わります。それは、すでに生えている歯がすり減り小さくなるのに伴い、次の歯が後ろから前の歯を押し出すように生えてきて、前に生えていた歯と置き換わるという独特のものです。第二大臼歯が完全にすり減り、第三大臼歯と置き換わるのは大体40歳くらいとなります。こうした年齢による頭骨のタイプの違いはMIS11とMIS9で共通しているので、ヨーロッパのパレオロクソドンはすべて同種のアンティクースゾウであり、インドのナルバダゾウと中国のパレオロクソドンの頭骨と四肢骨にはそれぞれ別種と見られる特徴があるということでした。

 この新説でもナウマンゾウは古い形質を残した種で、その祖先種は第三臼歯が生えている老齢個体でも前頭頭頂隆起があまり強くないシュトゥットガルトタイプの頭骨を持つものだろうとしており、私の説と共通しています。しかし、第三大臼歯が生える年齢でナルバタタイプの頭骨を持つ種が進化した時期には言及していません。ナウマンゾウの祖先が大陸から分断された時期との兼ね合いから、少なくとも東アジアでは、その時期はMIS12よりも前になります。しかし、イタリアのMIS13(約48~53万年前)の地層から第三大臼歯が生えているナルバダタイプの頭骨の報告があり、パレオロクソドンの頭骨の進化には地域差があった可能性があります。ただし、この頭骨は現地保存されており、地層中に埋まったままで、おでこの形を類推したにすぎません。現地保存されているため頭骨の形を正確に観察できていない例は、これだけではありません。私の仮説の着想のきっかけとなったLa Polledraraの頭骨も、現地保存されて臼歯は地層中に埋もれており、頭骨に何番目の臼歯が生えているか不明です。シュトゥットガルト近郊で産出したシュトゥットガルトタイプの頭骨には第二大臼歯が生えています。もしLa Polledraraの頭骨に第二大臼歯が生えていれば、ほぼ同年齢の頭骨にシュトゥットガルトタイプとナルバダタイプの両方が見られ、後者は年代が若いということになります。つまりLa Polledraraの頭骨が現地保存されている限り、私の説が復活する可能性は残されているのです。

 このようにゾウの頭骨化石は、発見されたとしても、適切に地層中から取り出され、その特徴が十分に観察される状態まで処理されるとは限りません。ブリと同年代のレッキゾウの頭骨化石はジブチとスーダンで発見されていますが、ジブチの化石は詳しく研究される前に劣悪な収蔵状態のために崩壊し、スーダンの化石は発掘されずに現地に放置されています。ブリの頭骨化石も、発掘の8年前に調査隊が発見しており、私がミドルアワッシュの調査に参加していなかったら今でも現地に残されたままで、ユーラシアのパレオロクソドンの進化も再検討されなかったかもしれません。頭骨の発掘が可能となったのは、浜町のナウマンゾウ化石の修復作業に熱中した私の経験と、先入観に囚われずに重要性を見抜くホワイト博士の判断力がそろった結果ではないかと思います。

 発見されたにもかかわらず十分な処置が行われていない頭骨化石は、世界各地にあります。ナウマンゾウの起源問題の解決には、中途半端に放置されている頭骨化石が適切に処置される必要があり、日本にもそういう残念な化石が一つあります。それは冒頭で話した浜町産ナウマンゾウの頭骨化石です。浜町産ナウマンゾウは、当時高尾にあった東京都高尾自然科学博物館に収蔵され、この博物館が2004年に閉鎖された後は八王子市に移管されました。しかし、この化石は廃校を利用した収蔵施設に保管されており、内情を知っているごく一部の人以外はアクセスできない状態になっています。ゾウの頭骨化石は世界的に見ても産出例は少なく、しかも浜町産ナウマンゾウ化石は骨組織の保存状態が抜群に良いため、DNAが抽出される可能性さえあります。DNAが抽出されたら、そのデータをもとにナウマンゾウの起源が解明されるかもしれません。国内外の研究者が収蔵標本にアクセスしやすい施設へ浜町産ナウマンゾウ化石が移管されることを、願わざるを得ません。

参考文献
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犬塚則久(1977)ナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni)の起源について.地質学雑誌,83:639-655
Kawamura, Y. (2007) Last Glacial and Holocene land mammals of the Japanese Islands: their fauna, extinction and immigration. The Quaternary Research, 46: 171-177.
Larramendi, A., Zhang, H.-W., Palombo, M.R., Marco P. Ferretti, M.P. (2020) The evolution of Palaeoloxodon skull structure: Disentangling phylogenetic, sexually dimorphic, ontogenetic, and allometric morphological signals. Quaternary Science Reviews 229 (2020) 106090.
三枝春生(2005)日本産化石長鼻類の系統分類の現状と課題. 化石研究会会誌,38:78-89.
Saegusa, H. and Gilbert, W. H. (2008) Chapter 9 Elephantidae. In Henry, W., Gilbert and Asfaw, B. eds., Homo erectus in Africa, Pleistocene Evidence from the Middle Awash. University of California Press, Berkeley and Los Angeles, California, 193-226.
高橋啓一(2013)日本のゾウ化石,その起源と移り変わり.豊橋市自然史博物館研報, No. 23, 65-73.
衛奇(1976)在泥河湾層中発現納瑪象頭骨化石.古脊椎動物与古人類,14:53-58.

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第6回「兵庫の海にさぐる氷河時代の環境変動」(自然とむきあう)

佐藤裕司(兵庫県立大学自然・環境科学研究所 教授・所長)


 現在は「氷河時代」である。と言われても、皆さんはピンと来ないかもしれません。地球は約46億年前に誕生してから今日までの間に、何度か氷河時代と呼ばれる寒冷な時代を経験してきました。先カンブリア時代の原生代(25~5.4億年前)には、スノーボールアース(雪玉地球)という地球全体がほぼ凍結した時期が数回あったとされています。雪玉にならずとも、北半球と南半球の両方に大陸を覆う氷河(「氷床」といいます)が存在する時期を氷河時代とよびます。現在、北極にグリーンランド氷床、南極に南極氷床が存在します。よって、現在は氷河時代であり、地球史における寒冷な時代なのです。一方、恐竜が繁栄した中生代はホットハウスアース(温室地球)とよばれる温暖な時代でした。恐竜が絶滅した約6600万年前以降、気候は寒冷化へと向かい、現在の寒冷な時代は約260万年前に始まりました。
 私は1991年に当時の博物館準備室に採用されてから、兵庫県内を中心に過去約260万年間の環境変動をさぐる研究を続けてきました。ここでは、大阪湾と播磨灘の沿岸域で行ってきた研究を紹介します。


「第四紀」という時代
 約260万年前から現在は最新の地質時代「新生代第四紀」で、「更新世」と「完新世」に二分されます。第四紀には、寒冷な「氷期」と温暖な「間氷期」が周期的に繰り返されてきたことがわかっています。現在は間氷期にあたり、11,700年前から始まった温暖な「完新世」という時代です。
 第四紀のグルーバルな気候変動は、図1に示す海洋酸素同位体曲線で表されます。海水の酸素同位体の16Oと18Oの比率(δ18O)は地球上の海水と氷床との量的なバランスを反映し、氷期と間氷期を見きわめる手がかりになります。この酸素同位体曲線がいわば氷期/間氷期のカレンダーというわけです。カレンダーでは、完新世を海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)の1とし、奇数番号のステージが間氷期、偶数番号が氷期を示します(図1)。現在から見て最後の氷期(MIS 2~4)を「最終氷期」といい、約2万年前が最寒冷期で、その時には氷床が北半球を広く覆っていました(図2)。一方、「最終間氷期」は、現在より一つ前の温暖期(MIS 5)の中で、とくに約12.5万年前の最暖期(MIS 5.5)を指します。このような第四紀の気候の寒暖の繰り返しに伴い、海水準(平均海水面)も変動を繰り返してきました。

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図1 新生代第四紀の気候変動と海洋酸素同位体ステージ(MIS)

 MISによって気候変動の氷期/間氷期の繰り返しがカレンダーように示されます。このカレンダーをみると、最近の80万年間では、約10万年ごとに氷期と間氷期が繰り返されたことがわかります。



 氷期の地球上では主に北半球の高緯度地域に氷床が拡大しました(図2)。氷期には海洋から蒸発した水が氷の中にとどまるため、海水量は減少して海水準が低下します。たとえば、最終氷期の最寒冷期には、海水準は現在よりも120~130 m低下しました。当時の海岸線は現在よりもずっと沖合にあり、瀬戸内海は完全に陸化していました。このように海水準が低下して海岸線が沖合へ移動することを「海退」といいます。一方、温暖な間氷期になると、氷が融解して氷床は縮小し、海水量が増加して海水準は上昇します。海水準の上昇にともない、海岸線は内陸へと移動します。この現象を「海進」といいます。第四紀には、気候の変動に伴って海退と海進が繰り返されてきました。

現在の大阪湾は21代目の海
 現在の大阪湾とその周辺域では、地殻変動により330~350万年前から大地が沈降し始め、周囲から運ばれた堆積物が集積されて地層が形成されてきました。その地層中には海で堆積した「海成粘土層」が挟在します。その海成粘土(Marine clayを略してMaという)は古い順にMa 1から12と名づけられ、現在の大阪湾に堆積する粘土はMa 13とされています。つまり、現在の大阪湾は13代目の海であると、かつては考えられていました。ところが、調査が進むにつれて、Ma 1よりも下位に3枚の海成粘土(Ma -1、0、0.5)、さらにはMa 1と2の間にも別の海成粘土が存在し、今では計21枚の海成粘土が確認されています(図3)。そして、これらの海成粘土層の形成期は、周期的に訪れる間氷期に対比されています。この調査研究には、当館の地学系収蔵庫に保管されている1700mボーリングコア(神戸市東灘区)が大きく貢献しています。
 以上のグローバルな気候変動との対比から、最初に大阪湾が海になったのは氷期/間氷期カレンダーにおける約124万年前の間氷期(MIS 37)であることがわかりました。それ以降、大阪湾は氷期の海退時には「陸」となり、間氷期の海進時には「海」となることを繰り返しながら、今日に至っています。いま私たちが見ている大阪湾は、地層中の海成粘土の数から21代目(MISの数では17代目)の海ということになります。

30thanniv-envc-fig2.jpg図2 北半球の氷床分布、現在と最終氷期

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図3 海洋酸素同位体ステージ(MIS)と海成粘土(Ma)との関係



播磨灘は何代目?
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写真1 高塚山粘土層のはぎ取り標本
(3F展示室)
 播磨灘も大阪湾と同様の地史をたどってきたのでしょうか。その答えは揖保郡御津町(現在、たつの市御津町)で採取されたボーリングコアと、播磨灘沿岸に分布する地層中に見出すことができます。
 御津町では1994年に町史編纂事業の一環で、深度約90 mに達するボーリングコアが採取されました。そのコアの分析では、最終間氷期の海進を示す海成粘土Ma12層が確認されましたが、それより下位に海成粘土は存在しませんでした。このことは、最終間氷期の播磨灘が現在とほぼ同様の海域で、それ以前の間氷期には御津町まで海が達しなかったことを示します。では、明石海峡や鳴門海峡を越えて、海が播磨灘へと進入したのはいつの時代でしょうか。
 その証拠となる地層の年代は、私と加藤主任研究員との共同研究によって明らかになっています。

・神戸市垂水区の高塚山粘土層 >>> MIS 11の海進
 当館の3階展示室に、高塚山粘土層のはぎ取り標本が展示されています(写真1)。この粘土層中には海棲の貝化石が密集する層があり、古くから「高塚山貝層」という名で知られていました。その貝層の下位には高塚山火山灰が挟在します。火山灰は地層の年代決定にとても重要で、とくに高塚山火山灰はフィッション・トラック(FT)年代測定法に必要なジルコンという鉱物を豊富に含有します。展示を計画した当時、高塚山火山灰にはFT年代測定法から約35万年前と約50万年前という二つの年代値が与えられていました。展示解説では後者を採用しましたが、その後、年代を算出する方法(年代較正)の標準化がはかられ、これによって以前の年代値は信頼できなくなりました。そこで、新たに火山灰試料を採取してFT年代測定を行ったところ、約41万年前という結果が得られました。現在では、高塚山に及んだ海進は氷期/間氷期カレンダーにおける約40万年前の間氷期(MIS 11)に対比されています。これにより、MIS 11の時代には垂水区のある明石海峡付近が海であったことがわかりました。
 ところで、展示室のはぎ取り標本では、火山灰がうまく採取できていません。新たにはぎ取りを製作したいところですが、高塚山では明石海峡大橋に至る有料道路が建設され、それに伴う周辺の開発で露頭はほぼ消滅しました。現在、地層をはぎ取った場所は大手家電量販店の店舗となっています。

・加古川市上荘町の海成層 >>> MIS 7の海進
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写真2 加古川市上荘町で観察された地層
(1996年当時)
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写真3 顕微鏡で見た堆積物中の珪藻化石と火山ガラス
 珪藻はいずれも内湾の浅い海域にいる海水生種で、
 火山ガラスは加古川火山灰に由来する。
 加古川周辺に及んだ海進は「日岡海進」と名づけられています。その名称は、かつて加古川市日岡地区に分布する高位段丘の地層中に海棲動物の巣の痕跡とされる生痕化石が見出され、段丘形成と海進との関係が論じられたことに由来します。しかし、海進の時期については確かな証拠がありませんでした。
 その時期を示す証拠は、加古川市上荘町都台地区の段丘堆積層中に残されていました(写真2)。この地層は、1995年8月に加古川市在住の高校生が植物化石を寄贈してくれたことがきっかけで、その存在を知ることとなりました。植物化石は暗灰色の粘土層中に含有され、その粘土が海成と直感し、高校生の情報をもとに詳しい調査を行うことにしたのです。上荘町で観察される粘土層中には、浅海域に生育する珪藻という微小な藻類の化石が含有され(写真3)、その粘土層が海成であることを示します。さらにこの粘土層には、年代の決め手となる火山灰も含まれていました。火山灰は「加古川火山灰」と名づけられ、詳しい分析の結果から、大阪湾や琵琶湖の地質調査で報告された約21.5万年前の火山灰と同じであることが判明しました。これにより、日岡海進は氷期/間氷期カレンダーにおける約22万年前の間氷期(MIS 7、とくにMIS 7.3)に対比されると結論づけられました。
 以上から、約40万年前の間氷期(MIS 11)には明石海峡付近まで海は達し、その後、西へと海域は広がり、約22万年前の間氷期(MIS 7)に加古川まで達しました。そして、最終間氷期(MIS 5.5)には御津町にまで広がり、現在の播磨灘と同様の海域になったと推定されます。播磨灘の誕生は約40万年前以降のことで、現在と同じ規模の海域としては2代目と考えられます。

 このように、大阪湾と播磨灘は第四紀の気候変動と地域特有の地殻変動とが組み合わさって形成されてきました。気候変動の歴史を振り返ると、これらの海域がいずれ陸になる時代がやって来るはずです。それは何年後でしょうか。
 現在の間氷期は約40万年前の間氷期(MIS 11)に似るという説があります。MIS 11は約28,000年間持続したとされ、もし現在の間氷期も同じだけ続くとすれば、あと約16,000年は海の環境が続くことになります。ただし、この説には「人間活動が気候システムに影響を及ぼさなければ」という前提があります。現在、人間の活動は地球のさまざまなシステムを変え、人類はすでに新たな地質時代「人新世(Anthropocene)」に突入したとする見方があります。人間活動による地球温暖化が進む中で、果たして、氷期はまた訪れるのでしょうか。

参考文献
1) Biswas, D.K., Hyodo, M, Taniguchi, Y., Kaneko, M., Katoh, S., Sato, H., Kinugasa, Y. and Mizuno, K. (1999) Magnetostratigraphy of Plio-Pleistocene sediments in a 1700-m core from Osaka Bay, southwestern Japan and short geomagnetic events in the middle Matuyama and early Brunhes chrons. Palaeogeography, Palaeoclimatology, Palaeoecology, 148:233-248.
2) 加藤茂弘・佐藤裕司・松原尚志・兵頭政幸・壇原 徹(1999)六甲山地西麓に分布する高塚山火山灰のフィッション・トラック年代とその対比.第四紀研究,38:411-417.
3) 佐藤裕司(1997)堆積物のイオウ含有量と珪藻遺骸群集からみた過去80万年間の堆積環境変遷.御津町史第三巻,地質・自然編 考古編:40-59.
4) Sato, H., Ban, F., Katoh, S. and Hyodo, M. (2017) Sea-level variations during Marine Isotope Stage 7 and coastal tectonics in the eastern Seto Inland Sea area, western Japan. Quaternary International, 456:102-116.
5) 佐藤裕司・加藤茂弘・井上史章・兵頭政幸(1999)兵庫県・播磨平野東部で発見された酸素同位体ステージ7.3の海進堆積物.第四紀研究,38:401-410.

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