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はるの企画展
「六甲山 みどり色の浪漫・未来」

六甲山にみる 人と自然のかかわり方、





六甲山は最初からはげ山だったの
だろうか
平安の昔の六甲山
江戸時代の六甲山を見てみたい

企画展
「六甲山みどり色の浪漫、未来」あらまし
海と山
生田の森のCG再現!
名所図会に見る六甲山
グルームたちの六甲山
細雪と六甲山
六甲に学ぶ
そして、未来へ
今回のはるの企画展のシンボルのひとつとしてポスターなどで登場する、花を持ってポーズしている女性の写真は、阪神大水害のあった昭和13(1938)年4月に発行された「阪急ワンダホーゲルの会」リーフレット(森地氏所蔵)に使われたものです。 和装がまだ一般的だった当時ですが、軽快なシャツとスカートを身にまとって、自然の中で流行のファッションを楽しんでいるようです。 今回の企画展では、近代の六甲山を紹介していますが、この昭和13(1938)年と、昭和16(1941)年というふたつの年がなんどか登場します。これらの年は、この地域の歴史を考えるときの重要な時代の節目だったのかもしれません。
「六甲山の鳥類」六甲山ホテル所蔵 六甲山ホテル旧館2階のギャラリーに置かれているこの額は、鳥類のコレクターとして有名な小林桂助先生が関わられて作られたものです。明治の初め頃、六甲山は樹木の少ない草原の山でしたが、鳥たちの姿は、豊かとまで言えないまでも、多く見られたようです。 六甲山ホテルは、企画展展示室でご紹介している島耕二監督「細雪」(大映1959)にも「六甲ホテル」として登場しています。
神戸港沖から見た「はげ山」六甲山(明治中期)  神戸市立博物館所蔵
西国名所図会に見る六甲山(江戸後期) 当館所蔵 樹木の濃いみどりで描かれた甲山(西宮市)とは対照的に、六甲山(武庫山)は、うすいみどり色で描かれ、樹木の少ない草地であった様子がわかります。



六甲山は最初からはげ山だったのだろうか

六甲山はわたしたちにとってなじみの深い山です。有名なだけではなく、みなさんも一度はハイキングなどで訪れたことがあるのではないでしょうか。この六甲山が、かつて「はげ山」だったことは良く知られています。 たとえば右図に示すような神戸港などを撮影した写真絵葉書が明治以来数多く作られてきましたが、そこに写っている六甲山は白い地肌ばかり目立つはげ山です。 わたしたちが良く耳にする六甲山の歴史は、神戸港開港から語られる機会が多いようです。つまりA.H.グルームらの外国人らが着手した、いわゆる「六甲山開発史」と、明治以降営々と行われてきた植林事業により、今日のような緑豊かな六甲山になった、というエピソードです。 明治以前の六甲山はどんな山だったのでしょう。



平安の昔の六甲山

平安時代のむかし、清少納言の「枕草子」に「森は」という段があり、その中に「生田の森」が登場します。つまり当時、「森といえば」と思いつく、とても有名な森のひとつに生田の森があったのです。「生田の森」は今の生田神社(神戸市中央区)の鎮守の森のことです。 当時の森は、今よりもずっと大きかったようで、後の源平合戦のころには平家の軍隊がこの中で陣を張れるほどの、たいへん広い森だったようです。当時はこの森は摂津の国(大阪府と兵庫県南東部)を代表する場所として、摂津の枕詞としてもつかわれています。鎌倉以降、続古今和歌集などにも「生田の森」は何度も登場します。平安時代には、どうも山麓の森も含めて、六甲山は「はげ山」ではなく、みどり豊かな自然だったようです。



江戸時代の六甲山を見てみたい

企画展では、生田の森が江戸時代にはどのような情景であったかを、コンピューターグラフィックス(CG)での再現を試みました。また江戸時代の旅行ガイドともいえる名所図会などに描かれた六甲山をとおして、江戸時代の六甲山はどんな山だったのかを検証も行っています。ぜひご覧ください。





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Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2003/6/26