研究ノート

田園住宅地を再考する

環境計画研究部  澤木 昌典

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 私の専門は都市計画ですが、とくに環境に配慮したまちづくりについて研究しています。そこで今回は、都市化の最前線であり自然環境との接点である郊外住宅地について考えてみたいと思います。
 わが国では、これまで都市が拡大するにつれ、隣接する農村が郊外住宅地として都市にのみこまれ、自然環境が次第に失われてきました。しかし、都市住民が郊外に住居を求めるようになったのは、明治の後期以降たかだか80年くらいのことなのです。
 そのおもな要因としてあげられるのは、次の4つです。1つは工業の伸展により農村から都市への流入人口が急増したこと。あわせて、都市内の住居環境、とくに衛生環境が悪化したこと。3つめに郊外に鉄道などの交通期間が整備されたこと。最後に、イギリスやアメリカから「田園都市」の思想や郊外生活の多くの事例が紹介されたことです。
 「田園都市」は、E.ハワードが1898年(明治31年)にイギリスで都市と田園の両者の利点を兼ね備えたものとして提案したものです。一つの田園都市は農耕地に囲まれた人口3万2千人の小都市で、都市と農村の結合、土地の公有、人口規模の制限、産業を内包した自足性、開発利益の社会還元、住民の自由と協力などを特色とするものでした。
 この理想都市は、実際に、ロンドン近郊でレッチウォースやウェルウィンなどが建設されて成功を収めたことから、世界各国に大きな影響を及ぼしました。日本にも、当時の内務省の有志によって明治四十年に紹介され、その後、研究が重ねられました。
 しかし、当時の日本はまだ近代都市計画の黎明期にあったため、イギリスのような形では田園都市は建築されませんでした。むしろ、民間の電鉄会社や土地会社による郊外住宅地開発において、働く場所は不衛生な都市でも、住居は陽光輝く田園環境の中に構えて健康的な生活を送るという面が、開発理念や販売戦略として強調されていくのです。
 たとえば、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)が明治42年に出した「空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」というやや挑発的な書き出しで始まるパンフレット『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか』を見ると、「晨(注:夜明け)に後庭の鶏鳴に目覚め、夕に前栽の虫声を楽しみ、新しき手造りの野菜を賞味し、以て田園的趣味ある生活を欲望す・・・<中略>・・家屋の構造、居間、客間の工合、出入に便に、日当り風通し等、屋内些かにも陰鬱の影を止めざるが如き理想的住宅を要望せられる」と、自然環境と日照・通風を享受する郊外での理想の田園生活像が高らかにうたわれています。他社の販売広告を見ても、多くが「健康住宅地」「公園住宅地」「田園都市」と人々を郊外へと誘っています。
 こうして関西では、明治40年代以降に、各私鉄沿線を中心に郊外住宅地が次々につくられ、都市住民が郊外へ転出する動きが本格化していきます。
 大鉄(現在の近鉄)によって大正14年から開発された藤井寺経営地では、ハワードの影響を強く受けた大屋霊城が計画に参加し、子どもたちが自然と親しむ体験学習の場として「教材園」という花卉園や果樹園、蔬菜園、温室、池、動物舎などのある遊園地を経営地内に設けました。この教材園は、大阪市内の小中学生で連日にぎわったそうです。
 阪急が昭和の初期に販売した石橋温室村住宅地と伊丹養鶏村住宅地では、住民が花卉や卵を生産し、それを阪急百貨店が販売する試みもなされました。
 郊外住宅地として成熟し、天下の富豪村とまで言われていた住吉村(現:神戸市東灘区)では、神戸市との合併問題について研究して、昭和4年に『住吉村振興論』をまとめ、
 「(住吉村は)田園都市として、他に類のない理想の自治団体である」
として、合併せずに1つの独立した自治体(田園都市)として邁進することを力強く述べています。
 このように田園生活の理想を求めてつくられた戦前までの郊外住宅地(田園都市というよりも田園住宅地)ですが、その多くは戦災やその復興、さらには都市化の波にのみこまれるなどして、いまでは都市の一部分として市街地に埋没してしまい、緑豊かな邸宅街などに往時の面影をわずかに残すだけです。
 今日、都市に暮らす多くの人々が、日常生活にうるおいを得ようと、緑や生物など身近な自然とのふれあいを求めていますが、私たちの住んでいる住宅地の環境整備やこれからの郊外での住宅地開発を考えるとき、「田園生活」の理想を求めていたこれらの初期のころの郊外住宅地開発の姿の中に、見直すべきヒントがいくつも隠されているような気がします。

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Copyright(C) 1998, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 1998/03/20