ユニバーサル・ミュージアムをめざして15

 

『エピジェネティクス 操られる遺伝子』

PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

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 前回、「ひとはくブログ」に「『エピジェネティクス 操られる遺伝子』 PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−1」を載せてしばらくして、あるお母さんからお手紙をいただきました――わたしは、失語が出ることがありますので、今でも電話は避けています。その事を知っておられたので、わざわざお手紙を書いて下さったのです。どうもありがとうございます。

 

 そのお母さんは、「日本でも病院の産科に行くと、葉酸は積極的に勧められる」と教えて下さいました。葉酸は胎児の成長には欠かせませんから、お医者さんは勧めるのです。

 

 そのお母さんの息子さんはアスペルガー傾向があるそうです。アスペルガーの人は少し変わり者が多いのですが、でも本質は、邪心のない、心根の優しい人です。その心根の優しさを大切にしてあげれば、今のままの、心根の優しい、すてきな青年に育つと思いますよ。

 

 さて、

 

 PTSD(精神的外傷)やストレスは、エピジェネティックなメカニズムを通じて、普通の遺伝とは違いますが、まるで遺伝しているような影響を子どもに与えます。葉酸――お手紙を下さったお母さんにも申し上げましたが、もともとは誰にでも必要な物質です――その葉酸が多すぎるために、自閉症は起こるのではないかと疑っている研究者がいました。エピジェネティックスは、研究されるようになってから、まだ10年ぐらいにしかなりません。よく探せば、似た現象があちこちで起こっていそうです。この文章は、『エピジェネティクス 操られる遺伝子』の書評のつづきです。

 

☆   ☆

 

 オーストラリアは有袋類(ゆうたい・るい)というほ乳類が住む大陸として有名です。有袋類はオーストラリアの北にあるニューギニアや南アメリカにもいますが、いろんな種類の有袋類がたくさん住んでいるのは、オーストラリアだけの特徴です。

 

 そのオーストラリア大陸の南東にタスマニア島という島があります。大きな島で、つい最近までタスマニア人が住んでいました――残念ながら白人が入植して、現在は絶滅してしまったそうです。タスマニア島は6万4400キロメートルだそうですから、九州より大きいが、北海道ほどではないということになります。それでも十分に大きな島です。

 

 このタスマニア島には、ここにしかいない珍しい有袋類がいます。それはタスマニアデビルとフクロオオカミです。フクロオオカミはヒツジを襲う有害獣(ゆうがい・じゅう)として嫌われ、絶滅(ぜつめつ)させられてしまいました。タスマニアデビルもフクロオオカミと同じように他の動物をおそいますが、わたしの持っている本では、おそうのは、ヒツジよりももっと小さな動物だということです。そのタスマニアデビルが、フクロオオカミとは別の理由で、今、絶滅しそうなのです。

 

 なぜ絶滅しそうなのかというと、タスマニアデビルの間には、「噛(か)んで移るガン(癌)」がはやっているからです。タスマニアデビルは、死んだ動物の肉を前にすると、争いのために競争相手のタスマニアデビルの顔に噛みつくのです。その時、ガン細胞が移るのだそうです。

 

 ガンが「噛(か)んで移る」? 人間のガンは、噛(か)まれても移りません。わたしは『エピジェネティクス 操られる遺伝子』を読んでいて、最初はガン細胞が移ったのではなく、ガンを起こすウイルスが移ったのだと思いました。実際に、そういうウイルスはいます。しかし、移っていたのは本物のガン細胞だそうです。それも、皮膚(ひふ)だとか骨(ほね)だとかといった組織の細胞ではなく、何にでもなれる「幹(かん)細胞のガン」だというのです。

 

 ここまで読んで、わたしは、ふたつの事に気が付きました。

 

 ひとつ目の、本当にガン細胞が移っているのなら、タスマニアデビルの免疫(めんえき)が普通ではないのではないか? たとえば他人の体から臓器移植(ぞうき・いしょく)や皮膚移植(ひふ・いしょく)を受けると、体は「自分とは違うものが入ってきた」と思って拒絶反応(きょぜつ・はんのう)を起こすものです。しかし、皆が似た遺伝子を持っていると、この反応はおきません。「免疫(めんえき)が普通ではない」とは、そういう事なのです。

 

 たとえばチーターは皮膚(ひふ)を移植(いしょく)しても拒絶反応(きょぜつ・はんのう)は起きません。なぜ拒絶反応が起きないのかというと、昔、チーターの数がものすごく減ったことがあって、その時、ある遺伝子を持っていた個体だけが生き残った。そうだとすると、元のようにチーターが多くなった今でも拒絶反応(きょぜつ・はんのう)は起こらない事があるのです。難しいことばを使うと、「遺伝的な多様性」がきょくたんに低くなったのです。野生動物でも、よくある事だそうです。そんな訳で、タスマニアデビルもチーターと同じく、拒絶反応(きょぜつ・はんのう)が起きないので、ガン細胞は、あるタスマニアデビルから別のタスマニアデビルに移れたのではないか? そう思ったのです。

 

 ふたつ目の「幹(かん)細胞のガン」というのは、ひとつ目に比べてやっかいな気がします。どこがやっかいなのかと言うと、皮膚(ひふ)とか肺(はい)とかいった「○○の細胞」ではなく、これから何にでもなれる、言うなら「卵(たまご)のようなガン細胞」だからです。移った「卵(たまご)のようなガン細胞」は、顔のできものだけでなく、肺やリンパ節(せつ)といった顔以外の場所もガンにしていきます。このガンにかかったタスマニアデビルの治療(ちりょう)法は、まだ、ないままだそうです。

 

☆   ☆

 

 「幹(かん)細胞のガン」と聞くと、iPS細胞のことを思い出します。iPS細胞というのは、京都大学の山中伸弥(なかやま しんや)さんたちが作った、これから何にでもなれる人工的な細胞のことです。もちろん「人工的な細胞」といっても、細胞そのものを人間が作れるのではなく、マウスならマウス、ヒトならヒトの、皮膚(ひふ)の細胞に、ある遺伝子を入れて作りだしたのです。そして皮膚(ひふ)の細胞に入れた「ある遺伝子」には、発ガン作用があります。

 

 「卵(たまご)のような幹(かん)細胞」とガン、そしてエピジェネティクスの間には、実は深い関係があります。細胞には全部、DNAがあります。DNAが「生き物の設計図」と言われていた時代には、体の中のある細胞は肝臓(かんぞう)になり、別の細胞は脳になるというのが、考えてみれば不思議でした。実はどうも、そこにはエピジェネティクスが関係しているらしい。しかし、実態はまだよくわかりません。

 

 エピジェネティクスというのは、細胞によって、DNAにそれぞれ別べつの「ふた」をかぶせて、そのDNAが働かなくなるようすです。そして、その場所にぴったりのDNAだけが働くようにしているのです。それが体の中でうまくいっているから、ヒトはヒト、タンポポはタンポポになるのです。

 

 ガン遺伝子というものがあります。体が生まれつき持っているガンを作る遺伝子です。ガンは恐ろしい病気ですから、「ガンを作る遺伝子」なんて、わけが分かりません。なぜガン遺伝子などというものが、あるのでしょう。しかし、事実としてガン遺伝子はかなりの数あることがわかっています。そのガン遺伝子を持っているのに、多くの人はガンになりません。それは、ひとつには、ガンの抑制遺伝子というのがちゃんとあって,ガン遺伝子の働きを押さえてしまうのと、もうひとつは、エピジェネティクにガン遺伝子に「ふた」をして、ガン遺伝子が働かないようにしているからです。

 

 iPS細胞は、エピジェネティクな「ふた」をむりやり取ってしまった、人工的に作りだした幹(かん)細胞です。しっかり分裂させるために発ガン作用がある遺伝子を入れるのですが、それとともに、エピジェネティクな「ふた」をむりやり取ってしまった幹(かん)細胞では、ガン遺伝子も働き始めるということです。

 

☆   ☆

 

 それにしても、<ガン遺伝子>とは、いったい何物なのでしょう? 体の中に危険な病原体を持っているようなものです。ガン遺伝子は、何食わぬ顔で遺伝子にもぐり込んだエイズのようなウイルスなのでしょうか? それとも、老化して役目を終えた細胞に死ぬタイミングを教える遺伝子なのでしょうか? わたしにはわかりません。でも、ある事を思いつきました。それは、ヒトが使う事のなくなった、ちょうどトカゲのしっぽのように、「体の再生をうながす働きを持つ遺伝子が、変化したもの」という思い付きです。

 

 わたしは霊長類学者で、エピジェネティクスの専門家ではありません。ですから、今から書くのは、ただの<しろうと談義>です。ふざけているのではありませんが、責任は持てません。

 

 もともとガン遺伝子は、ガンという病気の遺伝子などではなく、体の再生をつかさどる遺伝子でした。体の再生のためには、肝臓(かんぞう)とか脳(のう)とかの専門化した、言い換えればエピジェネティクな「ふた」のかぶせられた遺伝子ではなくて、エピジェネティクな「ふた」を取り去った遺伝子が必要です。なぜかと言えば、再生のためには、しっぽの骨やうろこといったふうに、まだ専門的には別れていないからです。魚類や両生類、は虫類までは、似たような再生ができるはずです。しかし、ほ乳類になると再生できるところは限られます。ヒトの体でいえば肝臓(かんぞう)の再生力は強いそうですが、手や足が再生できるとは、聞いたことがありません。この再生をする能力を持った遺伝子は、進化の途中で働かなくなりましたが、消えてしまったわけではなかったのです。再生をうながしていた遺伝子は、エピジェネティクスによって、息をひそめるようにしてDNAに引き継がれ続けました。

 

 その遺伝子は、ある時、再生のために細胞を増殖させる働きは保ったまま、しかし、体の骨や皮膚(ひふ)を組み立てる力は失って、ついにガン遺伝子になりました。そのために、ガン細胞をむやみやたらと増やすようになったのです。

 

 以上は<しろうと談義>でした。しかし、ガン遺伝子も、もともとは何かの役に立っていたと考えなければいけないような気がします。

 

 この『エピジェネティクス 操られる遺伝子』の著者、リチャード・フランシスさんは、遺伝子を「生き物の設計図」ではなく、「細胞」と「遺伝子」は、互いが互いに影響を与え合う共同作業者のようなものだと言います。その意味では、今まで遺伝するのだと信じられてきた事にも、エピジェネティクスであれば元に戻すような治療法が出てくるのかもしれません。訳者の野中香方子さんが訳者あとがきに書いておられましたが、エピジェネティクスは2008年度から、アメリカ国立衛生研究所の重要研究項目になっているそうです。日本でも、同じように研究が進んでいくのでしょう。

 

 また、遺伝子と細胞が影響し合ってヒトが生み出されるようすを受けて、フランシスさんは「人間性というものは程度の問題であって、絶対的なものではない。胚が人間になるまでの各課程をどう扱うか決定するのは、社会全体の責任である」と述べておられます。出産前診断に対するこの筆者の意見には、耳を傾ける価値があります。わたしは、そう思いました。

 

 

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三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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