ユニバーサル・ミュージアムをめざして14

 

『エピジェネティクス 操られる遺伝子』

PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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  『エピジェネティクス 操られる遺伝子』は遺伝学の本です。DNAやタンパク質合成、ヒトゲノムといった、ややこしそうな話が出てきます。なぜ遺伝学の本が、この「ユニバーサル・ミュージアム」のコラムに入っているのかと、不信に思われた方もいるでしょう。ひょっとすると、「不信に思われた方もいる」どころではなく、「不信に思われた方が多い」と言い換えた方がいいのかもしれません。<ひとはく>は、いろんな方が集まってくる生涯学習のための施設です。そこのコラムに、こんな「ややこしそうな」題名の本を取り上げて、三谷(わたしです)はいったい何を考えているのか? 自分が読んだ(と称する)本を、自慢したいだけじゃないのか? いろんな言葉が聞こえて来ます。ご不信、ごもっともです。この書評を書く前に、そのあたりを説明しておきます。

 

 わたしが「エピジェネティクス」という言葉をはじめて知ったのは、昨年の秋頃でした。発達障がいの中でもアスペルガー症候群について特集した子どもの精神医学の雑誌「そだちの科学」【注1】http://www.nippyo.co.jp/magazine/5622.htmlを読んでいて、目にはいったのです。新しい言葉だろうとは思いましたが、書いてあった意味は、もうひとつわかりませんでした。こんな時はインターネットのコンピュータ検索が便利です。引いてみました。すると、どうも「DNAは変化していないのに、(まるで遺伝しているかのように)親から子へと伝わる現象」らしいのです。でも、何が伝わるのでしょう? 「エピジェネティクス」は普通の遺伝ではないということですが、何が違うのでしょうか?

 

 わたしが高校生だった40年前は――10年でひと昔と数えますから、本当に昔のことです――教科書にメンデル遺伝の手ほどきが載っていました。それはエンドウ豆の皮の色や模様がどう伝わるのかといったことです。ヒトのABO式の血液型も、同じしくみで親から子に伝わります。でも現実にわたしたちが経験する、たとえば身長や癖毛(くせげ)といった見た目や、「おとなしい」とか「活発」だといった性格は、豆の皮や血液型のように単純ではありません。メンデル遺伝を否定するわけではありませんが、現実にわたしたちの周りで起こっていることは、もっともっと複雑でした。

 

 今では、ひとつの遺伝子がひとつの見た目や性質をコントロールするというメンデル遺伝は、あるにはあるが、たいへん珍しく、普通は、いくつもの遺伝子が組み合わさって、見た目や性格を決めているのだということがわかるようになりました。その組み合わせがどれだけ重なり合っているかとか、遺伝子の細かな性質の違いはあるのかといったことによって、見た目や性格が微妙に変わる。わたしは、そう思っていました。それでも「エピジェネティクス」というのは、このことに当てはまらない、まったく新しい考え方のようです。何か基本的な原理が違うのかもしれません。違うとしたら、どこがどう違うのでしょう? と、せっかくここまで考えたのに、この疑問は、疑問のままで残してしまいました。ひたいに大きなクエスチョン・マークを貼り付けたまま、日常のあれやこれやにかまけてしまったのです。

 

 わたしがよく存じ上げている方で、昔からお世話になっている、ある生化学の先生がいらっしゃいます。上品な女性で、関西のご出身なのですが、お仕事の関係で長く愛知県に住んでいらっしゃいました。その方が、今度、神戸に引っ越しをなさるとうかがい、わたしは、お住まいが近くになったと喜んでいました。そして、ふと思いついて、「<エピジェネティクス>の簡単な解説書を教えて下さい」とお願いしてみました。長く学生の相手をしてこられた先生であれば、そんな本もご存じかもしれない。でも生化学といっても、エピジェネティクスはできたての科学のはずです。ムリを承知で紹介していただきました。その方が紹介してくれたのが、『エピジェネティクス 操られる遺伝子』(リチャード・C・フランシス著、野中香方子訳、ダイヤモンド社)でした。読んでみて、実にわかりやすい説明に、思わず引きつけられました。

 

☆   ☆

 

 DNAは、ヒトを始めとするあらゆる生物の設計図である」というのは、言い古された「常識」です。DNAがなければ生き物は始まりません。それなら、DNAという高分子は、ある生き物の運命を握る<神>にも等しい存在なのでしょうか? これも、どうも違うようです。ヒトの発達を考えてみても、最初、子宮の中で感じたうすぼんやりした光や、お母さんの心臓が刻んだドクンドクンというリズムは、生まれた後も、人の日常に影響しているのです。顕微鏡が発明される前に研究者が想像していたのは、「人の卵(らん)の中には、目に見えないほど小さな人が隠れていて、その人が大きくなって赤ん坊になる」ということだったのですが、ふたを開けてみると「小さな人」はいませんでした。最初から、どのような赤ん坊が生まれ、どのようなおとなになるかは、決まっていなかったのです。そうではなくて、胎児を取り巻く環境が大切だったのです。

 

 わたしたちは昔から、「赤ちゃんを身ごもったら、災(わざわ)いのありそうなことは避け、(赤ちゃんができて)身ひとつではなくなった分、人一倍、滋養(じよう)を摂(と)らなくてはいけない」と伝えてきました。日常からタブーが消えてしまい、栄養条件がよくなったわたしたちの生活では、「妊娠したから災いを避ける」とか、「ことさら栄養のあるものを食べる」という習慣はなくなりましたが、その代わり今度は、きびしくなった社会的なストレスがお母さんに重くのしかかり、子どもにも影響するようになってしまいました。どんなストレスかと言うと、地震や津波、場合によっては戦乱の恐怖といった厄災がもたらす精神的外傷(PTSD)です。ストレスがPTSDを引き起こし、それが子どもにも、生涯にわたって影響を与えるというのです。

 

 ここまでは、よくわかります。今までわかっていたことと、本質的には何も変わりません。変わったのは子どもに影響を与えるメカニズムでした。ストレスが、ある特定遺伝子の働きを押さえ込んでしまい、脳内に、特定の大切な物質が作れなくなりました。この物質は恐怖や不安を静める働きがあります。子ども、つまり胎児や赤ん坊の脳でその物質が作られなかったために、その子は不安やうつ、PTSDに陥りやすくなっていたのです【注2】。この特定遺伝子の働きを押さえ込んでしまう働きは、愛情を持って接すれば取り除くことができます。しかし、普通は長期間――たぶん、子どもの一生の間――つづくと考えられているのです。言い換えれば、子どもにもたらされた影響は、まるで親から子に伝わる遺伝子のように、ただし通常の遺伝子以外のメカニズムで、伝わるというのです。これがエピジェネティックスの仕組みです。

 

 この本の著者、フランシスさんは、肥満や糖尿病も、PTSDと同じようにして起きるといいます。妊娠したラットの母親にタンパク質を摂らせないようにすると、コドモは肥満や糖尿病になりやすい体質になるそうです。その結果、すぐにメタボリック症候群を発症してしまう一生を送ることになります。親のこうむった栄養不足や社会的ストレスは、ここでもコドモの一生を左右するわけです【注3】

 

☆   ☆

 

 わたしが知りたかったエピジェネティックスと自閉症の関係は、葉酸(ようさん)という物質に関係があるようです。

 

 普通、葉酸はくだものや野菜から摂(と)っていますが、妊娠した初期には、健康な赤ちゃんを産むために葉酸を服用することが勧められているそうです(筆者はアメリカ人ですが、日本でもそうでしょうか? 妻は「聞いたことがない」と言っていましたが)。なぜかというと、葉酸は胎児の神経系の発育をエピジェネティックに助けるため、神経管閉鎖障害といった重大な障がいを防ぐからです。メタボリック症候群の改善も期待できるのだそうです。このことを知った食品製造業者は、シリアルから小麦粉まで、穀物製品には何にでも葉酸を添加して、栄養強化をうたっていると言います。

 

 いくら健康によいものでも摂り過ぎれば害になることがあります。適量であれば健康によいものでも、過剰な葉酸の摂取は障がいを引き起こす。エピジェネティックなメカニズムで自閉症を引き起こすことはないのだろうか? このような疑いを持っている研究者がいるそうです【注4】

 

 もう一度言いますが、これはアメリカの話です。日本ではシリアルは子どものおやつのようなものですから、子どもにとっては同じとしても、日本ではアメリカほど小麦は摂(と)りません。まあ、感覚的にたとえれば、主食のお米に人工的な葉酸が添加されているようなものだと思います。日本のシリアルや小麦にも人工的に葉酸が添加されているのかどうかはわかりません。ちなみに家にあった子ども用のシリアルには、人工的なものかどうかはわかりませんが、「栄養成分表示」として鉄分や何種類かのビタミンとともに葉酸の値が載っていました。

 

 自閉症は親から子に伝わる性質です。そうだと思っていました。自閉症の人は興味の持ち方や学ぶ方法が違います。それにしても、自閉症の人は、全体として数が多くなったと思いませんか? アメリカでは多くなったとありましたが、日本でも増えているようなのです。このことは、何か変だと思いませんか? なぜ変かと言うと、「自閉症は遺伝する性質」なのですから、そんなに簡単に減ったり増えたりはしないはずなのです。

 

 ひとつには、社会的に<自閉症>というものが認知され、お医者さんも自閉症だという診断を下しやすくなったことがあります。

 

 もうひとつは――今でも偏見は残ってはいるものの――自閉症者をまるで犯罪者のように扱い、色眼鏡で見下すことが減ってきました。そのため、自閉症者の側も「自分は自閉症だ」と言える土壌ができてきました。この社会的な変化が、あげられると思います。

 

 ですから、全部が全部、葉酸のせいにしてしまうのは、とんでもないことです。ですがアメリカでは、食品会社が葉酸を広く添付するようになった時期と自閉症が増加したと思われる時期は、だいたい重なっているのだそうです。

 

 つづきは、次に書きます。

 

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【注1】 鷲見 聡(2011  アスペルガー症候群の最新理解. 自閉症スペクトラム――遺伝環境相互作用の視点から.そだちの科学 17: 21-26. http://www.nippyo.co.jp/magazine/5622.html  この雑誌の記事の中で、小児精神医学者で臨床遺伝学の研究者でもある鷲見 聡さんは、10年前には常識であった「自閉症スペクトラムは遺伝によるものだから変えられない」という状況は変わり、自閉症スペクトラムの原因も、エピジェネティックスによって遺伝要因と環境要因が複雑に絡み合っているのだろうとおっしゃいます。自閉症スペクトラムの遺伝学は、2011年現在でも多くの事はなぞのままですが、「(自閉症スペクトラムの当事者が)変えることのできない部分に対しては、いくら努力しても報われない。そういう場合は、周りの大人たちが、それを『個性』として認める必要がある。一方、変わる可能性がある部分でも、そのために必要な体験がなければ、変化は起こらない。子どもたちひとりひとりの個性を理解して、それぞれに応じて適切な生育環境を与えることは、大人としての重要な使命である」と考えられておられます。

 

【注2】 脳にある海馬の糖質コルチコイド受容体があまり生産されなくなると、ストレス過敏な子が生まれるそうです。これは、メチル化というエピジェネティックな遺伝子制御のためだそうです。ここでは、Weaver, Cervoni, et al. (2004)  "Epigenetic programming by maternal behavior," Nat Neurosci 7 (8): 847-854. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15220929を参照のためにあげています。

 

【注3】 糖質コルチコイド受容体とメタボリック症候群の関係については、Witchel and DeFranco (2006) http://www.nature.com/nrendo/journal/v2/n11/abs/ncpendmet0323.htmlを参考にあげています。

 

【注4】 高濃度の葉酸と自閉症の関連については、Rogers (2008) http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0306987708001631Leeming and Lucock (2009) http://www.springerlink.com/content/e58vh80120316q42/を参照するように勧めています。

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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