岩槻邦男のコラム8

2009年9月29日

 明治以後の日本の教育体系の中で、生涯学習は少しいびつなかたちで展開してきました。これは、教育という言葉の意味が、教え、育てると理解され、教える主体(教師)の導きかたで教えられる客体(生徒)を育てる、という方法が重視されてきたためでしょう。明治維新以後、西欧文明に追いつけ追い越せと突っ走ってきた日本の教育は、100年経った時、少なくとも経済的には先進国の一角を占める成果をあげていたのですから、それなりの効果を生んできたのでしょう。教育を知育に限っていえば、知識の習得など、教え育てられることに意味があります。

 自主性、独創性に富んだ人は、教育体系の正統派でないという現象を生み、平均的日本人は大政翼賛的な大勢順応を旨とするのは、教える教育の成果だったのでしょうか。education という言葉は引き出すという語源をもち、教えられる客体の能力を育てることに主眼をおいた行為だと説明されます。英語の時間には、education は教育と訳されましたが、これは学習と訳した方が意味が近かったのかもしれません。国際的な会合で、頭の中でeducation を教育と理解して話を進めていて、しばしば理解に行き違いが生じるのを感じたのは、対訳の意味のずれに原因があったように思います。

 日本人が模倣に優れており、取り入れたものを巧みに改良して世界一のものに育て上げる能力をもっていることは歴史が実証している事実です。だから、自主性、独創性が日本人の資質として正統派でないことは明治以後の教育のせいだとばかりはいえないでしょう。しかし、寺子屋で営まれた全人教育は明治以後姿を消しました。それでも、だんだん昔の話になってしまいそうですが、優れた教師に心酔することの多かった頃には、知識の習得だけでない学びを学校でも経験していました。

 知育がすべてで、受験勉強の勝者が学校社会の勝者であるようになりますと、教えられることはあっても、学ぶことが乏しくなります。字義とおり、勉めて学ぶ勉強はしても、学ぶ歓びを満喫する学習の機会は学校にはなくなってしまいます。社会が学校に求めるのが教育だけとなったら、子どもは学びの歓びを満喫する機会をもたないままに、大勢順応型で、そのくせ変にこましゃくれた大人になってしまいます。

 日本で生涯学習が軽んじられてきたことは、西欧文明の後追いをしながら、博物館等施設を軽視してきたことにも現実の一端が見られます。もっとも、博物館関係者の対応にも問題がなかったとはいえません。それが、ここへ来て、一部の博物館の活性化によって姿を変えようとしています。新展開で生涯学習の振興を主題に掲げたひとはくも、そのトップランナーのひとつだと自負しています。知識を習得して博覧強記を目指すだけでなく、自分の目で確かめ、自分の頭で試行錯誤を経験する機会が、博物館には準備されています。もっとも、最近の博物館、少し奉仕精神が強すぎて、人々が考える前に考え方を提示してしまいそうで、それが教えられることに慣れた人々に求められていることであったとしても、博物館らしさを失わせる元になるのではないかと心配になることもあります。ノーベル賞候補に名前の挙がることのある畏敬する化学者が、子どもの頃何度も博物館へ連れて行かれ、一人で館内を彷徨していろいろ学んでいるうちに理学を志すようになった、と思い出を話されたことがあったが、最近のようにタッチオンの機会も多い博物館だったら、自分の好みに任せて博物館を自主的に利用するようであってほしいものである。

 生涯学習を生涯教育と同義語として使い、成人教育に置き換えてしまうようなあやまちはあまりなくなったようではあるが,生涯を通じて学ぶ歓びを感得するこころ豊かな生を全うするために、博物館がますます社会から求められる存在になるようでありたいものである。


岩槻邦男(人と自然の博物館 館長)

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