鯰絵

 19世紀の百万都市江戸の町を,安政2(1855)年にマグニチュード7規模の直下型地震(安政江戸地震)が襲い,下町を中心に多数の家屋が全壊,新吉原の遊郭などで火災が発生して,約1万人が亡くなりました.この地震直後に地震鯰をモチーフとしたかわら版が江戸市中で爆発的に流行し,後に「鯰絵」とよばれました.
 この鯰絵は,鹿島大明神が生捕りにした三匹の鯰に縄をかけて江戸屋という蒲焼屋に連行したところを,地震のたびに儲かる大工,鳶職,左官,屋根屋,露天商の五人が,なんとか助けてやってくれと懇願しているようすを描いています.安政江戸地震を表わす鯰を中心に,弘化4年(1847)の善光寺地震を右側に,嘉永6年(1853)の小田原地震を左側に置いて,江戸地震とその直近の三度の大地震を三匹の鯰に置きかえています.
 鯰を助けようという職人たちの掛合いがじつにおもしろく,大工は「鯰のおかげで日当が十分もらえ,好きなものを飲み食いできる.おわびするのでこの鯰を預けてくれ」と懇願します.鳶職は「女の所へ遊びに行けるのも地震のおかげだ」といい,これを受けて屋根屋は「好きな酒が飲めるようになる地震は,命の親だ」と言います.露天商はもっと地震のおかげを強調して「地震が来れば,五貫文や六貫文は朝の内に稼いでしまう」とうそぶきます.これら職人たちが代わる代わる鹿島大明神に許しを願いますが,神様は断固として鯰を許さず,「今後再び地震がおきないためになべ焼きにしろ」と命じて幕となります.
 鹿島大明神と職人たちという,およそ縁のない連中をこのようなやりとりで組み合わせ,庶民の心中に潜在的に存在している地震に「世直し」を期待する気持ちを,鯰絵を借りて表現しようとしている点に,この鯰絵の見所があるといえます. (安政大地震鯰絵・解説にもとづく)

<自然・環境評価研究部 加藤茂弘>

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