ユニバーサル・ミュージアムをめざして64

 

「ハンナ・アレントの『人間の条件』考」へのコメントなど

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 わたしは「サイエンス・サロン」という市民団体のお世話をしています。Eメールや手紙を通して、科学に関してしゃべり合うという主旨の団体です。わたしが人類学や霊長類学に興味を持っていますので、テーマはどうしてもそちらに傾きます。でも人類学や霊長類学というのは、元来、世の中の問題を考えてみるのに相性がいいのです。そのおしゃべりや議論から、ひょっとしたら、普段、自分が思ってもみなかった新しい何かが生まれるかもしれない。そこでは専門家もシロウトもない。時どきは実際に集まってみると、もっと楽しい。形式張らない、ある意味でルーズな集まりです。形式や約束に囚(とら)われず自由に語り合う(当然、他人にも形式や約束を強制しない)というのと、議論は良識を持ってするというのが、ルールと言えばルールでしょうか。その「サイエンス・サロン」の参加者が、「『人間の条件』考-1」「『人間の条件』考-2」を読んで感じたことを書いて送って下さいました。その内のいくつかを紹介します。プライバシーに配慮して、一部、書き替えましたが、文意は変えないように気を付けています。「サイエンス・サロン」の参加者には、ひとはくブログに書いてもいいと同意をもらいました。

 

 どの方もアレントの『人間の条件』そのものではなく、小玉重夫さんが『難民と市民の間で』で取り上げた学校教育に集中してコメントを下さいました。ある年配の男性からは、次のようなお手紙をいただきました。

 

 

 スクール・カーストがあるとか 学校が監獄や難民収容所のような状況にあるとかが、日本の学校でも現実の実情としてあるのでしょうか。

 

 私の経験では、そんな話は全く信じられません。昭和20年(1945年)生まれの私の小学生時代には、先生方(私の場合 6年間で 4人の女の先生でした)は 我々生徒を平等に親切に育てて下さったと思います。現在の日本の学校は、ハンナ・アレントの書いた本にあるような状況になっているのですか。どなたか、現在の学校の様子を教えて下さい。

 

 私個人の思い出で言えば、小学校に入った時、幼稚園の様なお遊戯が無くなって、学校へ行くのが楽しくて仕方ありませんでした。小学校5、6年生の頃は、色々と生徒会がらみの役についたりしていましたので、卒業式の時は役から離れられる開放感で嬉しくてたまりませんでした。

 

 生徒会の役員には、志願してなるのではなく、全く立候補する事なく、学級会の無記名投票によって振り分けられる方式でなる仕組みでした。それで、成りたい役に就けるかどうかは、投票が終わるまで分かりませんでした。しかし、5、6年生になれば、学級会だけではなく、学校全体の生徒会での役が回ってくる仕組みだとは、皆 納得していた事だったと思います。生徒会で決めた事について、一々先生方に文句を言われた事もなかったようですし、当事の小学校のどこを探しても監獄や難民収容所のような所は、ありませんでした。

 

 

 現在、わたしは60歳になります。大阪市の公立中学校に通いました。そこでは家庭で満足に食事ができず、よく貧血で倒れ、あることがきっかけで教員やクラスの子どもと折り合いが付かなくて学校に出てこなくなった女の子や、成績は抜群によかったのに、学費が出せないからと中学を卒業してすぐ就職した男の子、卒業間近になって一家で夜逃げをし、実質的に中学校を卒業できなかった女の子などがいました。このような話は、わたしの子ども時代には嫌になるほどありました。全部、わたし自身の身近で起こったことです。お手紙を下さった男性にその話をし、今だけでなく、わたしの時代にも、学校現場の「監獄」化や「難民収容所」化は本当にあったことを説明しました。

 

 すると、ご自分でもお子さんを育てながら働いておられる女性が、次のように書いて下さいました。

 

 

 何らかの理由で家族や肉親と暮らせない児童養護施設の子どもたちや、沖縄の基地で働くアメリカ人の父に棄てられた母子家庭の子どもたちを招待するキャンプに参加したことがあります。子ども達はみんな、小ぎれいな身なりをして、部外者の私にも、にこやかに接してくれました。しかし、キャンプ中、その日の感想を書く時間に、驚きとともに強い悲しさを感じる出来事がありました。彼らは小学3年生以上だったのですが、ひらがなを正しく書けない子どもがとても多かったのです。自分の名前でさえ、怪しい漢字で綴(つづ)る子どももいました。

 

 彼らの多くは過去十分な教育を受けられずにいたり、現在も受けられずにいます。親からネグレクトや暴行といった虐待を受け、生きて行くのに精一杯の状態であることも多いのだそうです。もちろん、施設や集まりの中で学習の補てんはなされていますが、追いつけないのが現実です。

 

 2013年TBSで放送された「ブラックボート」というドラマで、そういった学力に問題のある生徒がイジメの対象となり、学級崩壊の原因となる様子が描かれました。「スクール・カースト」の出現の過程はいろいろあるかと思いますが、現代では、学力格差がその大きな要因となっているような気がします。

 

 子どもの教育にいくら費用がかけられるか、どれだけ時間がかけられるか。

 

 当時、「スクール・カースト」という言葉は知りませんでしたが、学校での生き辛さの一端は、親が生むものかもしれないと思うと、悲しさと憤りで涙が止まらなくなりました。

 

 

 また別のある男性は次のように書いて下さいました。

 

 

 小学4・5年生の頃だったと思います。私は休憩時間にふざけていて、同級生に差別用語を使って罵ってしまったのです。勿論、心から発したのではなかったのですが、その同級生は大きく泣き崩れてしまいました。

 

 私は謝ることが出来ませんでした。意地を張ったとか、非を認めなかったのではありません。軽率に発した言葉が、相手にこのような大きな心理的衝撃を与えたことがショックで、声も出なかったのです。周りにいた同級生は、それをとがめることも無く、先生から注意されることもありませんでした。しかし、その出来事は「心のしこり」となって、50年以上経った今も私を苦しめ続けています。

 

 スクールカーストという言葉は、最近になって時々耳にするようになりましたが、私の小学生のころにも、それに似通ったものが有ったように思います。

 

 クラスの中には、上位、中間、下位的なグループがあって、上位のグループに属するのは、成績が良く家業が地域の名士や、教員・公務員・銀行員と言った家の子供、中間は、普通の成績で会社員や商店・農家の子供、そして下位はそれらにあたらない子供たちです。現在のスクールカーストは、コミュニケーション能力や、空気を読む能力が、その階層付けのポイントになっているようで、その点は随分様変わりしているように思いますが、クラスの中に序列や階層が存在することは、変わらないように思います。

 

 

 もちろん学んだ地域と時代によって、受けた教育には差がありました。次に紹介するのは関東で小学校時代をすごされた女性からのコメントです。

 

 

私が小学校教育を受け始めたのは戦後5年しかたっていない時でしたので、それまでの軍国教育から解放されて、一気に民主主義教育をしなければならなくなった頃のことです。兄たちは教師のそうした転向を目の当たりにしなければならなかったでしょうが、幸いに私は民主主義教育そのものの新鮮な時期に東京都の公立小学校で学ぶことが出来ました。

 

ただ、その当時は外地からの引き揚げ者や都市へ移動してきた人々(私の家族もそうですが)で急激な人口増加により、小学校の数が足りず、小学3年まで60人学級の二部授業というすさまじい状況でした。後で二つの小学校が分かれてできた時代です。そうした中では、先生一人が120人の生徒の面倒を見ていたことになりますので、一人一人に目を行き届かせるというようなことはおそらくなくて、毎日の授業をこなすだけであったろうと思います。4年生になってやっと50人クラスの一部授業になったのではないかと思います。

 

今思い出すと、先生はよく家庭訪問をしていたように思います。約束なくぷらっと。それが特別扱いではなく、どの子の家にも行っておられたようでした。卒業後大人になってからわかったことでしたが、クラスの中に在日コリアン(男子)がおられたようでしたが、日本名でしたので、私たち子供も父兄も全く知らずにいました。そのことを知ってから、そういえばと思いだしたことでは、先生がその子によく教室内で「上目遣いに人を見るな」と言っておられたのを思い出しました。彼は大人になってからその時のクラスのクラス会をやろうと奔走したり、先生とは全て意思が通じているようでしたので、卒業後も先生と交流があったのではないかと思います。先生の注意はおそらく、卑屈にならずに、堂々と生きろというエールではなかったかと思います。

 

先生は大学卒業したての先生でしたから、新しい民主主義教育を良い方向で実践していこうとしておられたのではないかと思います。同学年には5クラスありましたが、私の印象では、あともう一人の女の先生が同じような雰囲気を持っておられたと思います。ただ、暴れん坊の男の子たちは良く廊下に立たされ、まだビンタなど受けていたようでしたが、まだその時代には父兄も教師をとがめることはありませんでした。その暴れん坊グループも先生を慕っていましたので、良いこと悪いことの判断に納得が行っていたのかもしれません。今ではもちろん体罰に訴えるべきでなないと思います。

 

そうした雰囲気で過ごすことが出来ましたので、三谷さんの文章を読んで大変驚き、教師の質の低下を考えさせられました。その後、私は私立に行きましたので、やはりあまり問題を感じずにいました。

 

 

 最初にご意見を寄せて下さった男性は、わたしが書いたことに対して、改めて、次のように書き送って下さいました。

 

 

 我家は共稼ぎでした。妻は三交替勤務の看護婦でしたので、子供の学校行事には私が行く事も多くありました。子供の小学校では、長男の5・6年での担任の女先生が頼りなかったです。子供の事に余(あま)り関心がないように見られました。長女の5・6年の担任の先生は、私が教えていただいた様な(熱心な)女先生でした。長女が卒業した後も、学校へ勤務途路の先生にお会いすると、娘の事を色々聞いて下さったものです。

 

 世の中が豊かになり、何となく暮らして行けるようになって、一生懸命に生活していた頃の気持ちが 世の中の人々から失われてしまったのかも知れません。

 

 

☆  ☆

 

 わたしが使っているコンパクトな百科事典(マイペディア PC版)によると、哲学というのは「〈現実〉の整合的・体系的説明とその批判」だそうです。たとえば歴史で言えば「誰が行ったか」ということではなく、「なぜ、そうするのか」という疑問に答えようとする試みだと思います。わたしが行っている人類学や霊長類学と深く重なります。

 

 大阪大学の総長を務められた哲学者の鷲田清一さんは、お書きになる文章が分かりやすいことで有名です。その鷲田さんが最近書かれた岩波新書の『哲学の使い方』という本に気になることが書いてありました。病院でお医者さんが患者さんを診るのは臨床医学ですが、それと同様の意味で「臨床哲学:139~214ページ」ということをおっしゃるのです。つまり、哲学はあんまり難しい言葉を使いすぎていて専門家だけのものになっているが、それではいけない。たとえば、患者さんに対して病気やケガの状態を説明する時、専門家であるお医者さんは専門家でない患者さんに分かるように説明をしようとする。哲学者もそうあるべきだとおっしゃったのです。

 

 その通りだと思います。

 

 その意味で、ハンナ・アレントは、あまりにも考えたことを直接的に書きすぎていたのかもしれません。わたしも、『人間の条件』を読んでそのままでは「ひとはくブログ」に載せる感想にならないと思ったので、『人間の条件』の応用編として、教育の問題に強い関心をお持ちの小玉重夫さんがお書きになった『難民と市民の間で』を取り上げて、自分の理解できなかった点を補おうとしました。

 

 アレントの考えたことは教育の問題だけではなく、今、世界中で問題になっている「富裕層による経済支配」や「剥き出しの暴力」、あるいは「隠された暴力」と「(経済的な、さらに民族間の)格差」にも関係があります。アレントの立場で哲学を見直すと、哲学は数学に似ています。論理の積み重ねが大事なのです。ただ数学はどなたが解いても同じ答えが出るはずです――もちろん現実には違います。でないと、数学者は議論をすることが目的であるはずの「論文」は書けません――が、哲学は立場によって回答が違います。いろいろな前提があるということでしょうか。

 

 わたしたちの周りには、建前ではない、言ってみれば「皮膚感覚」で感じるヒリヒリとした問題があります。これを子どものように突きつめて考えるのが哲学です。建前ではとっくに解決したはずなのだが、「皮膚感覚」では、とても解決しているように思えない。心のどこかですっきりしないものを感じるのです。ひょっとしたら、わざと解決しないだけかもしれません。それを、ぐずる子どものように言い立ててみても始まらない。暴き立てないで、そっとしておくことが「大人の智恵」というものかもしれません。しかし、ここまで考えてみても、やはり心は静まらないのです。

 

 わたしは最初、人はなぜ、生まれたところを捨てて、未知の土地に出て行くのかが知りたくて『人間の条件』を読みました。ユダヤ系ドイツ人のアレントが、故郷を捨ててアメリカに亡命したからです。『人間の条件』を読んだのはまた、昔、わたしの周りにいた一人ひとりの子どもたちに共感を覚えたからでもありました。わたし自身が、そんな子どものひとりでした。

 

 わたしは長くアフリカを旅して廻りました。その時強く感じたのは、「人の生き方は、どこまで行っても同じだ」という単純な事実でした。考えてみれば当たり前です。でも未知への恐怖や、場合によっては憧れから、別の大陸に行けば別の生き方があるかもしれない。そう思ったことはないでしょうか? それが行ってみると、別の大陸にも「わたしと同じ人」がいた。家族を愛し、子どもの成長を喜び、やがていつか死ぬことを悟る。しかし、その「わたしと同じ人」が、たとえば「イスラム国」では剥き出しの暴力に走る。自分の身を振り返った時、それがなぜなのだろうと心の底から感じるのです。自分も暴力をふるい、またふるわれるということです。恐ろしくてなりません。

 

☆  ☆

 

 鷲田清一さんは『哲学の使い方』の終章「哲学という広場」に、誰もが疑問に思っているのに、表立っては聞けないことの例をまとめていらっしゃいます(226ページ)。カッコ書きは、読みやすいように三谷が入れました。

 

◎「サステイナビリティ」という思考は、人類が育んできた思考のうちの何をサステインし(=維持し、持続し、支持し、承認し、あるいは確認し)、何を捨て去るのかの最終的な選択を明示していない。

◎(さまざまなものの存在を認める)「多様性」の論理は、なぜ人格に限っては統合をいい、逆に多重人格については病理とするのか、その帰趨(きすう)を突きつめていない。

◎「安全・安心」の追求は(「防犯カメラ」の設置のように)必然的に監視社会を招来することを見ようとしない。

◎「コミュニティ」の称揚(しょうよう)は、かつて人びとが、ある理念や情念を共有することで成り立つコミュニティから脱出するところにこそ「自由」を見たことを、明確に総括することを避けている。

◎「公共性」や(インターネットを含めた)「情報公開」は、根拠を突きつめることなく、その言説の知政学的意味を問いつめることなく流通し、唱和されている。

 

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館
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