ユニバーサル・ミュージアムをめざして61

インクルーシブ。 ん? 何のこと?-2

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 2014年12月7日の日曜日に、ひとはくの博物館セミナー「むすぶ、ひらく、ユニバーサルなこと」を開きました。「障がい者と社会のあり方」について、皆で本音をぶつけてみようというのが、このセミナーの主旨です。セミナー参加者には、あらかじめ要求を出していただき、それに応えながら、よいセミナーを作り上げていく。まるで"インクルーシブ・セミナー"です。

 

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 セミナーを準備する前に、ある参加者から「三谷さんの書いた原稿の意味が、今ひとつ判(わか)らないのだが、それを説明して欲しい」と注文を受けていました。わたしが「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」の57 (1) と58 (2) に書いた、「誰が美しいと決めるのか?」の事です。こうおっしゃるのも無理はありません。その方は高次脳機能障がいの一種で、ろうに似た聴覚失認という症状あり、カタカナや、ひらがなばかりだと意味が取れないという症状もお持ちだからでした。この原稿で使った大事な言葉は「バリアフリー・デザイン」、「ユニバーサル・デザイン」、「インクルーシブ・デザイン」の三つです。三つとも、そろって外来語です。読んでもカタカナばかりで、さっぱり意味がわかりません。

 

 その上「誰が美しいと決めるのか?」の文章では、「ユニバーサル・デザイン」と「インクルーシブ・デザイン」の二つに、どんな違いがあるかがわかっていないと、議論できません。ところで、わたし自身、かつてはそんな言葉が区別できなくて困ったことがありました (3) 。そこで、今回のセミナー「むすぶ、ひらく、ユニバーサルなこと」ではこの三つを取り上げ、わたしなりの解説を試み、自由に議論していただこうと思ったのです。

 

 聴覚失認の方というと、「聞いてもわからない」、「頭の中から言葉が消えてしまった人だ」と誤解している方が、よくいらっしゃいます。わたしも似た経験があるので強調しておきます。頭の中から「言葉」が消えてしまうことは決してありません。そうではなくて、言葉を形作る音が、まるで風や波、洗濯機のモーターが廻る音と同じように聞こえてしまい、意味をなさないのです。しかし認識は、しっかり保っていらっしゃいます。

 

 そうした人と会話をする時には、「要約筆記(ようやく・ひっき)」という技術があります。喋った言葉を、そのまま文字に直していくのは「口述筆記(こうじゅつ・ひっき)」ですが、それだと書き手が疲れます。いつ喋り始めるかわからないので、息も抜けません。その上、何から何まで記録したのでは、読む聴覚失認者にとっては情報が多すぎて、頭がパンクしてしまうのです。そこで、要点だけを書いて行く「要約筆記(ようやく・ひっき)」が生まれました。

 

 ただ「要約筆記」をするのには技術が必要です。講演会などでは、ろう者や聴覚失認者のために、手話通訳者と共に要約筆記者が活躍しますが、よい要約筆記者であるためには練習が必要なのです。でも要は慣れだという事にしておきます。わたしに立派な「要約筆記」はできませんが、今回のセミナーでは、白紙を大量に持ち込むことにしました。この白紙に喋ったことの要点を書いて、参加者にお示しすることにしたのです。――実際は、わたしがヨチヨチと左手で書くのを見かねた別のセミナー参加者の方が、筆記を引き受けて下さいました。セミナーが終わってから、書いた紙はコピーを取って、皆で一部ずつお持ち帰りいただきました。筆記を引き受けて下さった○○さん、ありがとうございました。

 

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 今回のセミナー「むすぶ、ひらく、ユニバーサルなこと」では、「バリアフリー・デザイン」、「ユニバーサル・デザイン」、「インクルーシブ・デザイン」の違いについて、わたしなりに説明をしてみました。こうすれば、ひとはくブログ「誰が美しいと決めるのか?」も、どうしてそう書いたのか、意味がわかってもらえるのではないかと考えたのです。

 

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 まず「バリアフリー・デザイン」からです。

 

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 バリアとは「障壁(しょうへき)」のことです。生活をする上で、いろいろ障壁になることがある。その障壁、つまりバリアを取り除けば、困っている人が生活しやすくなる。具体的には、視覚障がい者の進路をガイドする黄色の点字ブロックや、車イス利用者のために階段をスロープにするといったことが当たると思います。

 

 しかし、困難が困難だと認識されない人にとってはどうでしょう? 解決が技術的に難しいとか、お金がかかりすぎる場合です。困難が「困難である」と認識できないのならば、当然のことながらバリアを取り除く努力はされません。多数者が無知であっても起こります。例えば宗教上の理由で学校に通うことのできなかった(=母語以外の言葉はしゃべれない)人が、突然、異民族の中に投げ込まれたとしましょう。そんな人が近所に住んでいても、多くの人は(=その人にとって異民族のコミュニティでは)どう対処したらいいかわからないでしょう。「難民」には、そんな人が現にいます。

 

 「バリアフリー・デザイン」に対して、わたしが抱くイメージを図に表すと、次のようになります。

 
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 バリアフリー、つまり、バリアから自由になる人が一部にいるのに、同じ社会に暮らしながら、バリアが無くならない人もいる。これは理不尽です。なくさなければ、ご近所として平穏には暮らせません。それなら「バリアフリー・デザイン」は止めて、最初から、もっと多様な人が住む生活を想定したらどうでしょう? この方が居心地はいいでしょう。それが「ユニバーサル・デザイン」です。

 
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 「できるだけ多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインすること」が、「ユニバーサル・デザイン」に根ざした社会のあり方です。障がいがある人やない人、年齢、性別、民族や母語、人種にかかわらず、さまざまな人が、いっしょに生活できるようにしようという考え方です。「ユニバーサル・デザイン」なら、「バリアフリー・デザイン」のように、困難があっても無視されるということは、(建前上は)無くなります。

 

 都道府県や市町村、あるいは公(おおやけ)の施設では、「ユニバーサル・デザイン」の考え方を採り入れている所が多くあります。この考え方なら、知らない内に人を差別する畏(おそ)れはなくなります。そもそも、そのような地方自治体や公(おおやけ)の施設で働いている全ての人が、「人権」を理解しているかと言えば、そんなことはありません。当然、ルールを無視する人もいるのです。そこで、「ユニバーサル・デザイン」の考え方をマニュアルにして、考え方は理解できなくても、「こんな場合は、こうしましょう」と、例をあげておく事がよくあります。マニュアルがあれば、「なぜそうするのかは理解できなくても、取りあえず、そうしておく」事が可能になるからです。

 

 実際には、マニュアルに忠実に従っていたとしても、本質を理解していないために、バリアがバリアのまま残される――それでもマニュアルには従っているのだから、設置者の責任ではない!――事がよくあります。例えば階段の手前で「危険、注意!」の点字ブロックはあるのだが、点字ブロックと階段の手すりが遠くに離れすぎているために、視覚障がい者の手が手すりに届かなくて、実質的に「注意!」は用をなさないといったことがあります。また車イスを使えば自力で上り・下りできるはずのスロープが、上半身にマヒがあるために力が足らず、現実には上り・下りできなかったり――中でも下りるのは恐い――と言ったことは、しょっちゅう、驚くほど身近で起きています。

 

 つまり、「よくできたマニュアル」があり、それに従っていたとしても、「実際に使う人の意見は、何も聞いていない」という愚かな事が起こっているのです。言いかえると、「ユニバーサル・デザイン」とは、具体的な生活者ではなく、どこにもいない「人というもの」=「抽象的、観念的、非現実的な人」を対象に組み立てた、仮想空間にある「仮の図面」に沿った建物や社会だと言えるのかもしれません。きつい言い方かもしれませんが、これは現実に起こっている事です。

 

 「ユニバーサル・デザイン」に対して、わたしが抱くイメージを図に表すと、次のようになります。

 

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 非現実的な、目の前にいない人を想定して作る「ユニバーサル・デザイン」は重大な欠陥があるのですから、別のデザインを考えましょう。計画の作り始めから困難を抱えた人が参加する「インクルーシブ・デザイン」はどうでしょうか。

 

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 「インクルーシブ・デザイン」では、作り始めから高齢者や障がい者など、いろいろな立場の人が、その人なりの要求を出し、デザイナーといっしょになって、その要求を実現するように計画します。その人が美しい、使いたい、行ってみたいと思うようなデザインを創造していくのです。「美しいはずだ」とか、「使いたいはずだ」、あるいは「行ってみたいはずだ」というのではなく、「当事者がデザイナーといっしょになって社会を創る」という考え方です。協働(きょうどう)という言葉がありますが、それに近いのかもしれません。ただ、あくまで具体的に困っている A さんや B さんと、デザイナーの a さんや b さんが共同で創り出す、具体的な「美しい」もの、「使いたい」もの、「行ってみたい」ところという意味です。

 

 「インクルーシブ・デザイン」(4) に対して、わたしが抱くイメージを図に表すと、次のようになります。

 

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 「インクルーシブ・デザイン」には、丁寧(ていねい)な共同作業が必要です。当事者は、「困っている事の本質」をよく理解して主張しなければ、ただのワガママになってしまいます。またデザイナーも、自分のことではなくても(=実感ができなくても)「本当に困っている事の本質」は理解する必要があります。

 

 「インクルーシブ・デザイン」はいいことずくめのように思えます。しかし、現実に、社会の全てにわたって実現することは難しそうです。「ユニバーサル・デザイン」に比べて、何倍ものお金が必要ですし、マニュアルも、なかなか作れないでしょう。第一、あまりにも多くのデザイナーが必要です。しかも、デザイナーなら誰でも、敏感な人権感覚を持っているわけではありません。これは当たり前です。

 

 そのような中で、「インクルーシブ・デザイン」を実践しようと努力している場所があります――「できている」と言っているのではありませんよ。それは教育現場です。生涯学習施設でも努力している場所はあるのですが、ここでは学校教育を取り上げます。

 

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 なぜ教育に「インクルーシブ・デザイン」なのでしょうか? それは公共財であり、社会的共通資本である「教育」という営みでは、一人ひとりの要求や才能、興味などを尊重しなければならないからです。そのために教育は、もともとインクルーシブ・デザインとは相性が良いのでしょう。「インクルーシブ教育」(5) という言葉もあります。

 

 教育の受け手――学校教育では生徒――の一人ひとりの要求を満たす教育では、担任はデザイナーに当たります。ひとりの先生がひとりの生徒を世話するのが理想でしょう。しかし、現実にはそうもいかないのです。それで副担任を置きます。授業や教室の運営を主にするのは担任ですが、一人ひとりの生徒が教育を受ける時、何かに困っていると、副担任がそれに応じた補助をします。地域によって、またクラスによっても違うのでしょうが、副担任が複数いる場合もあります。繰り上げ算ができなかったり、漢字が書けなかったりする生徒に合わせた教え方をしてくれますし、突然、海外から来た生徒には言葉の面倒もみてくれます。簡単な挨拶は、ハングルや北京語、広東語、南米のスペイン語やポルトガル語、フィリピンのタガログ語といった、生徒の母語に合わせた言葉を使ってくれる公立学校があるそうです。

 

 生活する上での困難、特に「障がい」の考え方は大きく変わりつつあります。新しい「障碍観(しょうがい・かん)」では、〈医療モデル〉から〈社会モデル〉に移行しつつあります。〈医療モデル〉では、「障がい」はケガや病気といった「治すべきもの」でしたが、〈社会モデル〉では、いびつな社会の仕組みが「障がい」を新しく作り出していると考えます。「健常者」という抽象的、観念的、非現実的な「ひと像」を持ち続けるより、現実的で多様な人を目の前にして、具体的な対処法を考える方がよい。わたしは、それが〈社会モデル〉だと解釈しています。

 

 「コミュニケーション障がい者にわかりやすい文章とは?」ということを考えて、この話題を終わりにします。

 

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 この図は、IFLA(国際図書館連盟)という組織が本や文章を読みにくい人のためにまとめた、「読みやすい図書」の対象となる人びとを表す図です (6) 。円がだいたいの対象グループを表し、四角形は読みやすい図書を示しています。この図と具体的な「インクルーシブ・デザイン」との関係は、わたしにも、まだよくわかりません。さまざまな人の読みにくさを同時に満たす文章の書き方を工夫しているのですから、ひょっとすると、これは「ユニバーサル・デザイン」の試みなのでしょうか?

 

 「バリアフリー・デザイン」、「ユニバーサル・デザイン」、「インクルーシブ・デザイン」のそれぞれに欠点はあります。大切な事は他人の〈こころ〉を理解することですが、社会には大勢の多様な人が生活しています。一律に「他人の〈こころ〉」を理解しようと言っても、機嫌の悪い、理解する余裕のない時は誰にでもあるものです。必ずしも理解できるとはかぎりません。そこで、デザインが必要になるのです。

 

 人と人の触れあいにデザインを利用しようとする時は、「ユニバーサル・デザイン」とか「インクルーシブ・デザイン」とかといった言葉には囚(とら)われずに、誰も区別することなく、しかし丁寧に、対応する事が必要ではないでしょうか。

 
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 このようなセミナーでした。いかがだったでしょう? 全国の皆さん、感想をおよせ下さい。

 

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 (1) 「誰が美しいと決めるのかー1」
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/10/post_1923/

(2) 「誰が美しいと決めるのかー2」
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/10/post_1924/

(3) 「ユニバーサル・ミュージアムをめざして4:ことばの整理」(2012年4月10日付けひとはくブログ)
http://www.hitohaku.jp/blog_old/2012/04/post_1498/

(4) たんぽぽの家が出した「インクルーシブデザインの手法によるユーザー参加型デザインの仕組みづくりに関する調査研究」という報告書:
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/cyousajigyou/jiritsushien_project/seika/research_09/dl/result/08-07a.pdf
の21ページから57ページには、
具体的な制作の過程が載っていて、よくわかります。

(5) 「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)概要」(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm

(6) 三谷雅純 (2013)  「生涯学習施設は言葉やコミュニケーションに障がいを持つ人とどう向き合うべきか : 総説」(人と自然 Humans and Nature 24: 33−44)
http://www.hitohaku.jp/publication/r-bulletin/No24_04.pdf
の図1(40ページ)にあります。


 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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