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ユニバーサル・ミュージアムをめざして45

 

多文化であることの苦しみと寂しさ

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 


 わたしは大阪で育ちました。大阪市でも南の方です。大阪の南には、昔は南蛮貿易や港町として名高い自由都市(つまりアジール)だった堺があります。そんな環境で育ったので、近所には いろんな人がいるのが当たり前でした。その人たちがいろいろな価値観を持って地域で暮らし、地域に根付いている。そのことを当たり前だと思って暮らしてきました。

ですから、例えばクラスの□□君や○○さんは韓国系の民族学校に進学すると聞いたり、奄美大島に親族がいるのだと知りましたが、何ということはなく、それよりもその生き方が羨(うらや)ましくなって、仲良かったり、けんかをしたりして過ごしていました――今でも友人として付き合いのある人もいれば、その後、縁遠くなった人もいます。

☆   ☆

 そのわたしが「日本人は繊細な感覚を大切にする」とか、「日本人は清潔好きだ」と聞かされても、何だか腑(ふ)に落ちません。なぜ、そんなことを言うのだろうと不思議な感覚を覚えてしまいます。「日本人は繊細な感覚を大切にする」というのも、「日本人は清潔好きだ」というのも、それはそれで大事なことなのですが、皆が皆、一律に「日本人は繊細な感覚を大切にする」とか「日本人は清潔好きだ」というのは間違っているのではないか。あの人やこの人や、そうでもない人を、わたしは知っていると思ってしまうのです(大阪人は「繊細な感覚がない」とか、「不潔だ」と言っているのではないですよ。大阪の商店街や路地はゴチャゴチャしているが、そのゴチャゴチャが、わたしは好きだと言いたいのです)。

 このわたしの感覚は、もともとの多文化の環境から生まれたものかもしれません。しかし、わたしのように大阪で育ったのではない人、つまり日本の多数者にとって、この感覚とは、どうも違っているらしいと、その事にようやく気が付きました。(見かけ上の)多数者は、多数者にとってだけ都合よく街作りを行い、社会作りを行っています。そのために「街」とか「社会」に居場所のなくなった人は、さまざまな事件を起こしている。しかし、(見かけ上の)多数者はそのことを見ないようにしている。そんなことに気が付いたのです。

 平田オリザさんの『新しい広場をつくる』 (1) という本を読んでみました。平田さんは図書館――生涯学習施設のひとつです――を例にあげて、社会的弱者にも居場所を提供するはずのコミュニティ・スペース、つまり「必要とする人は誰でもいられる場所」として、日本の図書館は十分に機能していないと述べています。

 ある時、中学生とホームレスが図書館に居合わせました。寒い時期だったために、中学生もホームレスも暖(だん)を求めて図書館に集まってきたのです。中学生は本を読む人の側(そば)ではしゃぎ回り、そのことをホームレスがたしなめます。ところが中学生はそのことを逆恨みし、「復讐」と称してホームレスを襲ったのです。二度、三度と襲撃は重なり、最後には仲間の高校生も加わって、ついにホームレスを殺してしまいます。この事件は新聞やテレビでも大きく取り上げられたので、憶えている方が多いでしょう。

 これは教育の問題なのでしょうか? 平田さんは、加害者となった中学生(と高校生)や被害者のホームレスが、安心できるコミュニティ・スペースを作ってこなかった街作りの問題だと言います。この場合、中学生(と高校生)やホームレスは、共に社会的弱者です。

 この本で平田さんが言っていることを引用しましょう。「これまでの日本社会は、『誰もが誰もを知っている共同体』を作ってきた。これは、農耕社会の宿痾(しゅくあ)と言っていいだろう。(中略)麦は家族経営でも収穫できるが、稲は村落共同体全体で取り組まないと収量が上がらないという宿命を背負っている。(そのため、地域は『小さくて強固な共同体』である必要がある。:三谷)/しかし、都市化が進み、この小さくて強固な共同体に限界が来ているとすれば、私たちは、この『誰もが誰もを知っている強固な共同体』を、少し広域に緩(ゆる)めつつ、『誰かが誰かを知っている穏やかな共同体』に編み変えていかなければならない。」(『新しい広場をつくる』の53ページ)

 平田さんは日本社会の特徴を「村落共同体のしきたり」に求めます。そこでは多文化が共生していく論理ではなく、異質なものを排除する論理が力を持っています。形だけは肥大して都市のようになったが、その実体は、地域が「小さくて強固な共同体」のままなのです。そこでは「暴力をふるう中学生は排除する」とか、「ホームレスは排除する」といった「排除の論理」だけの空間が出現しました。「暴力をふるう中学生は排除する」とか「ホームレスは排除する」というのは当たり前のことだと思うかもしれませんが、わたしは、そのこと自体を暴力的に感じます。「排除の論理」は社会の格差を無視した、きわめて乱暴な解決法だと思います。

 「排除の論理」は、何も彼ら/彼女らだけを排除するのではありません。社会的弱者になったが最後、わたしやあなたも、簡単に「排除」の対象になるのです。「排除の論理」は表向き、正義です。しかし、当然のことながら「排除」の対象になる人にとっては、正義でなどあるわけはありません。「誰もが誰もを知っている強固な共同体」であった水稲農耕社会に生きる人びとは、都市化によって息ができなくなる。「繊細な感覚の」「清潔な」だけの、殺伐とした世界が広がっていたのです。

 その解決策を、平田さんは「社会包摂(-ほうせつ)=social inclusion」に求めています。「ユニバーサル・ミュージアムをめざして21」に書いた「サラマンカ宣言があった!」 (2) の回の「インクルージブ教育」と同じ考え方です。

 「地域社会の崩壊や核家族化、そして長引く経済の停滞の結果、人間はあっけなく孤立化してしまう環境に生きざるを得なくなった。現代社会において孤立しがちな人間を、どうにかして社会につなぎ止めておこうというのが、「社会包摂(-ほうせつ)」的な政策だ。これは、排除(exclusion)の論理ではなく、人々を社会に包摂(inclusion)することによって、結果的に共同体全体のリスクとコストを低減していこうという考え方だ」(61ページ)というのです。この方策が、うまい解決策になるのではないかと言うことです。

☆   ☆

 平田オリザさんは、演劇という芸術の社会的な意味を探る中で、このような考え方に至りました。演劇は「地縁や血縁のように(身動きが取れないほど)熱いもの」でもないし、社会が営利(≒お金儲け)だけで動くというのでは、あまりにも冷たい。かといって、市場経済ともどうにか折り合いをつけないと、何事であれ現代社会で実現することは難しい。市場経済と折り合いをつけられる「新しい広場」として演劇があり、劇場がある。そして「街のそこかしこに」は「出会いの場=コミュニティスペース」(52ページ)が必要だと論じます。

 「演劇」と同じことは「科学」にも言えます。「科学」は直接的に社会の役に立つ(≒市場経済の商品になる)場合もありますが、ひとはくで話題になる「科学」では、直接、商品化はできない場合が多いのです――恐竜や照葉樹林からでも、何とか工夫すれば商品は作れますが、恐竜化石そのもの、照葉樹林という植生そのものが、コンビニで売っているような商品になるわけではありません。それでも博物館は必要です。なぜかと言えば、「博物館」という生涯学習施設では、何でも自分で興味を持った事を探れる場所だし、そこに集まる人びとに重要な「出会いの場」(=コミュニティ・スペース)を提供するからです。つまりユニバーサルな空間になるわけです。

 平田さんの議論にせよ、ユニバーサル・ミュージアムの議論にせよ、自由に集える場所は、基本的にお金になりません。そもそもコミュニティ・スペースは、地縁・血縁とは別物であり、市場経済にも馴染みにくいものです。しかし、「人間の孤立化」や「地域社会の崩壊」といった現代社会の弱点を防ぐためには、図書館や美術館、博物館といった生涯学習施設にユニバーサルな考え方、インクルージョンの考え方は、ぜひとも必要です。

 長く地縁と血縁のしがらみに縛り付けられていた日本列島に生きる人びとが、簡単に見知らぬよそ者を受け入れる余裕などはないと怒る人もいるでしょう。それでも社会的弱者がいる限りは、どうあってもユニバーサルな考え方、インクルージョンの考え方を受け入れなければなりません。そこには新しく受け入れる多文化であることの苦しみと寂しさがありそうです。その苦しみや寂しさは、新しいものを受け入れらきれないという感情から起こるのかもしれません。

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(1) 平田オリザさんの『新しい広場をつくる』(岩波書店、1,900円)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/9/0220790.html

(2) 「ユニバーサル・ミュージアムをめざして21」に書いた「サラマンカ宣言があった!」
http://www.hitohaku.jp/blog/2013/01/post_1680/

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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