ユニバーサル・ミュージアムをめざして42

 

気が付くと「ユニバーサル社会」が出現していた

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)


 

 あっと気が付くと、身の回りは、いつの間にか「ユニバーサル社会」になっていました。ただし、その社会はあまり気分がよくありません。長く過ごしたいとは思わない社会です。

 突然、こんな事を書いて、訝(いぶか)しく思われるかもしれません。わたしは「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」を書き続けて来ました。博物館や美術館、図書館といった生涯学習施設は、本質的に誰でもが利用しやすい設備やサービスが必要です。それがなければ、本来の豊かな機能が発揮できないのです。ところが、今の生涯学習施設では、充分、少数者に配慮できない。たとえ配慮して見せても、それは形だけのことで、当事者の感覚や意見は反映されていない。内実が伴っていないのです。わたしにはそんな思いがありました。その事に、長い間、苛立っていたのです。こんな思いに至ったのは、わたし自身が障がい者になってからというよりも、もっと前からの事だったような気がします。

 ところが気が付くと、日本は、形だけは立派な「ユニバーサル社会」になっていたのです。気が付いてみて、改めて驚きました。

 わたしは本来の兵庫県立大学の教員や人と自然の博物館の研究員以外に、ある私立大学で非常勤講師をしています(していました)。その大学に勤めている知り合いの方が体調を崩(くず)され、体力が戻るまでの間、授業を手伝ってほしいと望まれたのです。わたしはその方に返すべき恩がありました。それで、迷うことなくお引き受けしました。その方は結局、思うように体調が戻らず、職を辞する事にされた(当然、手伝っていたわたしも、その大学の非常勤講師を辞める)のですが、その大学は、わたしの知る「大学」とは、かなり雰囲気が違うのです。

 学生は「学生」と呼ぶのを ためらうほど幼く、自分から望んで何かをするという事は、ほとんどありませんでした。「自分が何がしたいのかは、探さなければ見つからない」という事も知らないようでした。抽象的な事を伝えようとすると、とたんに私語が始まります。立ち歩く学生が出ます。あるいは、机に突っ伏して寝てしまいます。「わからない」「理解できない」という意味の、わたしに対する(暗黙の)抗議だと解釈しましたが(そして、抗議しているはずの「理解できない」という現実を意識している学生は、残念ながら見当たりませんでしたが)、どれほど噛み砕いて説明しても、授業は成立しませんでした。いったん私語が始まると、収まらないのです。どんな授業であれ、授業そのものを受けた経験が乏しいのだと思います。

 寝ている分には静かです。ですから、たとえ、わたしの講義を聴きたいと言ってくれる学生がいたとしても、その人の邪魔にはなりません。眠っている学生は放っておきました。ただ、わたしの説明を子守歌にして、教室中が気持ちよく眠っていたということが、現実にありました。一生懸命に説明をして、学生の方を振り返ってみて、唖然としたことがあります。大げさだと思うでしょうが、本当の話です。

 教員には高齢者が多くいました。どこかの大学を定年で辞められ、運よく再就職をした方とか、場合によっては高校を定年で辞めてから、非常勤講師として教えに来ている方もいました。わたしがお手伝いした方も、大学を定年で辞められたのです。わたしのように、「自分の考えた事をひとつの可能性と断って説明する」というのは、そこの学生には理解が難しく、重荷だったみたいです。その代わり、元高校の先生は初歩の初歩をやさしく教えてくれるので、学生から好かれていたようでした。

 このような場所を何と呼べばよいのでしょうか? わたしが「大学」と呼んで来た場所とは本質的に違います。そこは「大学」とは異質な空間に見えました。わたしは考え込んでしまいました。そして、これこそが「ユニバーサル社会」の具体化ではないのかと思い当たりました。たちの悪い冗談か、悪い夢でも見せられているようでした。

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 コンゴ共和国のブラザビルやインドネシアのボゴールの街は、少年・少女でひしめき合っています。高齢者もいますが、働いている人は多くはいません。人前で働くとしても、高齢者には高齢者なりの、人生の経験に似合った役目があるものです。少年・少女がする、例えば店の売り子は、経験よりも熱意と体力です。買い手の方も、売り子の熱意を買うのです。売り子の熱意は売れた時の笑顔に表れます。

 一方の日本ではどうかというと、少子高齢化社会です。ひしめき合うほどの少年・少女は、すでにこの国にはいません。少年・少女は、いたとしても過保護のためか一様に幼く、人生の何事かを決め、希望や目標を持って生きていくことは、残念ながらできそうにありません。皆がそうだとまでは言いませんが、そんな少年・少女が目に付きます。

 そのような幼稚な「学生」を、定年退職でいったんは現役を退いた高齢者が教える。その「大学」の事務は、次つぎに顔ぶれが変わる日々雇用の人が勤めている。弱い立場の市民だらけです。おまけに非常勤講師には重度障がい者(=わたし)がいます。これこそまさに、「ユニバーサル社会」以外の何物でもありません。

 聞けば、今は高齢者のための施設や病院でも、内実は似たり寄ったりだと言います。どこかの誰かは楽をしてお金を得ているのでしょうが、ここで言う「ユニバーサル社会」(=現代社会)を形作っている人の大半は、弱い立場の市民です。それ以外の何者でもありません。そして、その「ユニバーサル社会」は、決してわたしが思い描いていたような、暮らして楽しい場所ではありませんでした。

 この事を、今さらのように実感しました。

 どこが悪いのでしょう? 制度の問題でしょうか? それとも悪いところなどはなく、発展した社会はやがて滅びることが必然なのでしょうか? この社会は現実に滅びつつあるのかもしれません。そんな事まで考えてしまいます。

 「大学」という名前が誤解を生むもとかもしれません。何でもかんでも「大学」と名前を付けなくても、「○○塾」や「○○学校」と名乗って、そこで一人前の人間を育てればよいのです。「○○大学」と呼ぶと、わたしのように勘違いをしてしまう人間が出て来ます。「大学」は必ずしも創造的な場所でなくてもいいのかもしれませんが(それでも、本質的には創造的な場所であってほしいと思っています)、「一人前の社会人を育てる」というのは立派な教育です。そこで学ぶ学生の意欲も認めるべきです。それにふさわしい名称を考えて、付ける事を提案します。(「大学」と名前を付けておけば、そう名乗るだけで国のお金が支給されます。しかし、学生や教員や事務員に恩恵があったとは思えません。いったい誰が得をしているのでしょう?)

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 ユニバーサル社会を形作る市民citizen=公民:単純に、ある市に住んでいる人も○○市の「市民」と呼びますが、ここでは権利と義務を持つ公民という意味です)は、誰かが決めた事に、ただ黙って従う事はしません。納得したから従うのです。納得できなければ反論します。意見が割れれば、みんなのルールにはしません。それが、わたしにとっての民主主義です。ユニバーサル社会は民主主義から生まれてきます。

 ユニバーサル・ミュージアムは生涯学習施設のあり方のひとつです。ただし、それに留まりません。現実の社会ではなかなか実現できない、理想の「ユニバーサル社会」を探る社会実験です。言ってみれば、ユニバーサル・ミュージアムは現実社会のひな形なのです。

 理想のユニバーサル社会とは、気が付いたら、わたしの周りにあった、いつの間にか「ユニバーサル社会」になっていた社会とは違うのだと信じています。

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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