ユニバーサル・ミュージアムをめざして30

 

ミュージアムという空間

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

tamba_ryu.jpg丹波竜(たんばりゅう)は、兵庫県丹波市にある篠山(ささやま)川河床の篠山層群(ささやま・そうぐん)から2006年に初めて発見されたティタノサウルス形類とされる恐竜の化石です。

 

 アミューズメント・パークは、誰でも訪れやすいサービスや施設の作り方を心がけているそうです。その人にあったサービスは心地よく、評判がいいと聞きます。アミューズメント・パークは娯楽のための商業施設ですから、一度来た人がもう一度来たくなるような仕掛けがあって、人びとに、もう一度来たいと思わせることが大切なのでしょう。「人びと」には、乳幼児や子どもとその母親、高齢者や障がい者が含まれていることは言うまでもありません。生涯学習施設は娯楽施設ではありませんが、博物館や美術館も「万人に開かれている」と言うのなら、アミューズメント・パークを見ならうべきです。わたしはそう感じました。

 

 アミューズメント・パークは日常とは違う時間や空間を提供してくれますが、ある本を読んでいると、博物館や美術館も、〈ケ〉に対する〈ハレ〉の空間だという意味の事 (1) が書いてありました。〈ケ〉と〈ハレ〉というのは、民俗学で使う独特の言葉です。確か柳田国男という人が使い始めたのだと思います。

 

 わたしたちの生活は〈ケ〉と呼ばれる日常――労働と休息や、食事と排便・排尿、睡眠といった生理現象など――の連続で成り立っています。本質的に、生きていくために〈ケ〉は重要ですし、〈ケ〉の連続が人生そのものだと言う人までいます。しかし、〈ケ〉の時間ばかりでは窮屈(きゅうくつ)です。息が詰まります。秋の収穫明けで労働が一段落した時には、祭りのような気がハレる時間が必要です。それがなければ人生は味気がありませんし、辛(つら)い生活ばかりでは病気になってしまいます。我われの心を日常からすくい上げ、また次の日常にもどす。そうしてメリハリのある生活をする。そのために編み出されたのが〈ハレ〉なのです。

 

 〈ハレ〉の典型は結婚式です。新郎・新婦が特別な着物を着て式をあげます。結婚とは、わたしの知る限り、たいていの民族でただのお祭り騒ぎではなく、その民族ごとに決まった儀式を行なうものです。その時、お金がかかる場合もあれば、お金は必要ないという場合もありました。いずれにしても新郎・新婦は儀式を済ませて、始めて、夫婦と認められるというわけです。ただ、そうは言っても結婚式にお祭り騒ぎは付き物です。日本の場合、式の後の披露宴(ひろうえん)が「日常のしがらみに縛(しば)られない時と場所」ということになっています。その意味で普通の感覚からは、披露宴こそ〈ハレ〉の典型と言うべきなのかもしれません。

 

 博物館や美術館が「日常の生活感覚を越えた〈ハレ〉の空間だ」というのは、当たっているようにも気もしますが、でも当たっていない気もします。こう言われても、わたしは複雑な心境でした。

 

 なぜかというと、人と自然の博物館に限らず、多くの博物館はお役所が建てた施設だからです。お役所というと、それこそ〈ケ〉を体現(たいげん)したところだと言えそうです。何となく〈ケ〉のイメージが付きまといます。マジメで堅い場所。そこが〈ハレ〉の空間だとは。何という違和感でしょうか。

 

 しかし、人と自然の博物館で言えば、丹波竜(タンバ・リュウ)という〈ハレ〉の展示があるます。丹波竜というのは、大昔に住んでいた恐竜(きょうりゅう)の仲間で、クビナガリュウ(首長竜)の一種です。今では「丹波地方」と呼ばれる地域に住んでいました。絶滅してしまいましたが、その姿は化石になって残っています。それを掘り出している最中なので、その発掘のようすも含めて展示しているのです。この丹波竜の化石のある部屋は〈ハレ〉の空間そのものです。

 

 ボルネオ島(インドネシアの呼び名はカリマンタン島)の熱帯林を模した展示もあります。東南アジアの熱帯林には、そこを生活空間にしている人もいて、もちろん、その人たちにとっては〈ケ〉そのものの場所ですが、展示を訪れた熱帯林を知らない人にとっては、たちまち〈ハレ〉の空間になってしまいます。〈ハレ〉の空間だからこそ、幹(みき)のように見えるイチジクの巨大な気根(きこん)や、そのイチジクの実をつまむ奇妙なクチバシをした鳥、サイチョウの姿を見て、子どもたちは歓声をあげるのです。

 

 丹波竜(タンバ・リュウ)もボルネオ島の熱帯林も、この世に居場所がないわけではありません。丹波竜は大昔のアジアに生きていた(ただし、今はいない)生き物ですし、ボルネオ島の熱帯林は、今でも、そこに行けばちゃんと存在する生態系(せいたい・けい)です。現実にどこかにある(あった)。しかし、日常的には存在しない。そうしたものを、ヨーロッパの言葉で〈ヘテロトピア〉というのだそうです。日本語では、さしずめ「周辺にある場所」とでもなるのでしょうか。

 

 

RainbowTree_SusumuSHINGU_1988.jpg虹の木 rainbow tree 新宮 晋 Susumu SHINGU 1988

 

 ヘテロトピアという言葉は、ミッシェル・フーコーという哲学者が使ったことで有名になりました (2)。フーコーはヘテロトピアを、お祭りの露天(ろてん)が建つ空き地とか、都市で生活をする人びとが狩猟採集生活を疑似(ぎじ)体験できるキャンプ場のような、まさに〈ハレ〉の空間に近いものと考えました。それと共に、延えんと時間が降りつもって始めて成立する図書館や博物館も、ヘテロトピアだと考えたのです。書物や収蔵物は、時間を超えて集めなければならない智恵(ちえ)や知識(ちしき)の体系だという意味です。

 

 丹波竜(タンバ・リュウ)やボルネオ島の熱帯林を展示した空間は、実のところ、〈ケ〉の生活には、直接、役には立ちません。しかし、それでも人びとの生活には必要なものです。必要だからこそ、人びとは集まるのです。それこそが〈ハレ〉の空間であり、ヘテロトピアです。〈ハレ〉の空間やヘテロトピアは、わたしたちの日常生活を活性化するものなのです。

 

 博物館員としてのわたしの思考法は、あまりにも、現実の都合に流されていたのかもしれません。

 

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(1)    長谷川裕子さんの『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(集英社新書)

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0680-f/

136ページには、「専門化した芸術言語とコンテクストを逸脱し、アートを高次のコミュニケーション・ツールとして再生する試み、アートを通して個人のポリティクス(ミクロポリティクス)をパブリックに向けて表現していく態度と傾向は、文化多元主義に柔軟に対応するものであり、他の分野とのコラボレーションを促進し、同時にグローバリゼーションによって平準化された《日常生活》の均一性に差異をもたらし、活性化する機能をも果たしている。」という文章がありました。

 

(2)    浜 日出夫さんの「他者の場所 ヘテロトピアとしての博物館」(三田社会学 7: 5-16

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=26959

にミッシェル・フーコーとヘテロトピアの事が述べられています。また、『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』の78ページにも、フーコーの言ったヘテロトピアがどんなものだったかが述べられています。またフーコーはフランス人ですから、「ヘテロトピア」もフランス語読みをすれば〈h-〉の音が抜けますから、日本語でも「エテロトピア」と表記することがあります。

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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